「信長公居館の再生は資料がないだけに確証ある再生は無理なことといえる。そのことは最初から分かっていた。だが想像図を描くことは可能だ。その想像図を描くにあたってはできるだけ、誰もが納得できるような想像図にしてみたい。
信長の人間性、美学の持ち方、文化人との交遊は無論のこと、さらに歴史や経済、宗教などいろいろな角度から信長を捉えて信長そのものを解明してほしい」
悠子と優はあらためて与えられた任務の重大さを感じていた。
「そんなにむつかしく考えなくてよい。できないことをやれというつもりはない。やれる範囲でよい。これまで多くのひとがチャレンジしているが成功していない。
何故かといえば信長の本性を十分つかまえていないからだと思う。君たちは視線を変えて見つめてほしい」
「なにかヒントはありませんか」
悠子はすがるように言った。
館長は真剣な表情の二人に話を切り出した。
「違う角度とはこういうことだ。例えばフロイスのことだ。多くの研究者はフロイスの記述を丸のみしているだけだ。フロイスについて理解が不足している」
そういってフロイスについて解説を始めた。
「当時の宣教師は超エリートであった。宗教学はもちろんのこと、自然科学、歴史、地理などいろんな分野の学問を習得している。そのうえで、祖国および宗派の発展のために世界中に派遣された。アジアの拠点はインドのゴアにあり、フロイスは数年そこで勤めながら東アジアの研究をしている。
無論、日本についても相当研究していた。黄金の国と呼ばれた日本は、当時において話題になっていた。そして喜んで日本への布教活動及び宗教発展使命のため派遣に応じて来日した。長崎に来たのは一千五百六十三年のことだ」
館長は解説を続けた。
「つまり永禄六年だから来日してから六年になる。六年もあれば日本語を習得し日本の文化、経済、政治など全てにわたり理解していたことであろう。
彼の知性の高さを知れば信長公居館の評価はかなり高い。京の都の御殿と比較しても最高度の評価をしたと言えよう」
悠子と優は館長の話に聞き入っていた。二人はそこまで踏み込んで考えたことはなかったからであった。
館長の話はさらに続いた。
「この話は私も初耳だった。しばらく前、ある講演会で一緒になった愛西市教育委員会文化財担当の山田さんと信長について話す機会があった。
何といっても勝幡城を有す市であるし、津島についてもよく知っておられる。その中で面白い話を聞けた。信長は岐阜に城下町を造った時、津島の商人を根こそぎ連れて行ったということだそうだ」
「それは興味ある話ですね」
眼を輝かして優は言った。
【前回の記事を読む】信長の思想が固まったのは、父親の死、弟信行の殺害という人生最大の関門を乗り切った頃だろう。その頃、信長を教育したのは…