「……実は昨日も眠れなくてね。躁鬱で、神経が参ってるんだ。何週間も眠らないと、活性酸素が脳血管をダメにして、いずれ死ぬらしいね、キミ」
妙な重苦しい沈黙が降りる。どうやら彼はこの種の気まずい沈黙をあえて招くのが、大好きらしい。
「それと、胃の上のところに、どうも変なしこりを感じててね。食べ物を飲み込むとつかえるしな。最近はさ、俺ももう、やることだけはやっておかなきゃならんと、思っている訳なんだ」
「何よ、やることって」
店主は、普段のさばけた口調に戻った。
「つまり、仕事の残務整理とか、残された家族のことさ。いよいよという時には、遺書も書いておかなければ、ならないしな」
「冗談はよしなさいよ。だめだめ二村さん。ポジティブに、前向きに明るく考えなくっちゃ。そうやって、物事を、悪意にとらないの。何事にも、感謝感謝。人間は、生かされているのよ」
いつものことなので、睦子は二村の悲観主義を、ちっとも相手にしていなかった。
二村はつまらなそうに、もう一度、コップの水を飲んだ。
耳の遠いはずの袋田マス江にも、不思議に二人の会話は克明に聞き取れたと見え、うんざりしたように、変な気味の悪い白目をしてみせた。
「ちッ。また、睦子さんの馬鹿のひとつ覚え、ポジティブ・シンキングが出たよ。人間は生かされております。日々、感謝しましょう、か。もう、耳にタコができたよ。日本の年金だって、この先、破綻するかどうかわかんないのに、ナニが、生かされてます、だよ。日々、半殺しにされてます、だわよ。
……だけど睦子さんも、あんなのに構うことないんだ。もっとも、あんなこと言って客を励ますのが、あの人の唯一の生きがいなんだろうけどね。……ああ、嫌だ嫌だ。あの野郎、ああいうふうに、雰囲気をわざと暗くして、自分に注目を集めようとするんだ。睦子ママも、大変だわ。ここは幼稚園じゃないんだわさ」
【前回の記事を読む】庭師は真っ白な歯をネクタリンの実に突き立て、女たちの目を見ながら、ゆっくりと齧ってみせた…