いや、星炉さんはなにかしていて、男の声に気を留めなかっただけかもしれない。書きものでもしていれば、聞き流すこともあるだろう。一階にはわたしがいるのだし。
星炉さんは、集井中将のことがきらいというより、まったく関心がないのだと思う。それは離婚したから、というわけではなく、結婚するときからではなかったかと、わたしは勝手な想像をした。どうでもいい存在だという本音が、とっさのときに、つい出てしまったのではないだろうか。
でも、あの運転手のことは気になる。
運転手の両手についていた血は、彼のものではなかった。集井中将を抱えたときに、ついたものだという。彼はまったく怪我をしていなかった。
運転手は護衛も兼ねているはずだが、集井中将を身を挺して守らなかったのだろうか。そういえば、彼は拳銃を持っていなかったのだろうか。
それに、なぜすぐ近くの家に助けを求めなかったのだろう。星炉さんの家も近かったが、あの場合、一分一秒でも早く、助けを呼ぼうとするものではないか。
考えれば考えるほど、おかしく思えてくる。運転手も気が動転していただけかもしれないが、でも今度敬明に会ったら、このことを話してみようと思った。
気がつくと、猫の声はしなくなっていた。もう決着がついたのだろうか。ひどい怪我をしてないといいけど……。
二日後、集井卓中将を暗殺しようとした犯人が捕まった。
次の日、黛さんが持ってきてくれた『銀嶺新聞』を見ると、犯人は二人で、黒樫(くろがし)清(きよし)という四十六歳の自称活動家と、竜浜(たつはま)遼太朗(りょうたろう)という三十二歳の幇間(ほうかん)だった。
二人が手錠をかけられ、警察官に連行される写真が載っていた。
黒樫清は一見、眼鏡をかけた普通のおじさんだが、よく見ると、薄気味悪い目つきをしていた。変な趣味に凝っていそうな顔つきである。しかし体は大きく、力も強そうだった。
【前回の記事を読む】男の人の切迫した声がして、玄関の引き戸を開けると、思わず悲鳴を上げた。両手に血がべっとりついた運転手がいたのだった
次回更新は10月19日(土)、11時の予定です。