一度転職をすると、それが癖になると聞いたことがありますが、その頃の私は、まさにそんな状態でした。退職手続きも適当だったので、雇用保険を利用したこともありません。新聞の求人欄で職を探し収入が途絶えないように職を変えていくだけでした。

年齢を重ねるごとに、やりがいのあると思えるような就職先もなくなってきます。実際はやりがいなどと甘いことを言っている立場ではなかったのですが、何となくそんな状態でした。

ある朝、新聞の求人募集欄で損害保険会社の地域限定職が目に留まりました。早速、応募しました。学生の頃の就職試験から何年かぶりの筆記テストを何とか合格して面接に進み、採用になりました。

養護施設を退職して4年目のことでした。地域採用とはいえ大手の損害保険会社だったので、それまでとは違い生活費は格段に安定しました。労働条件も福利厚生も今までとは違ってしっかりしていたので、妻もやっと安心してくれたようでした。

こんな夫に妻が愚痴をぶつけても当然です。それでも何とか生活を共にして、3人の子どもを守ってくれた妻でした。私もやっと落ち着ける職場にたどり着いたと少しホッとしました。もうこれ以上転職ばかりして、妻や我が子を不安にさせるようなことはできません。とにかく家庭を支えるため、守るためにその後20年ほどその職場で働きました。

40代後半を迎える頃、会社でも定年退職後のセミナーとか相談会とかが始まって、私もそんなことを考える時期になりました。社会貢献なんて立派なことではなくても、職場以外にも少しばかり世の中の役に立つようなことができたらと、市民活動や環境保全活動などにも興味を持ち始めました。

その頃愛知県が始めた環境教育指導者養成講座の募集案内が、目に留まり応募しました。その講習の中で愛知万博の市民プロジェクトを知り、それから不思議な10年間が始まりました。

当時、我が子は大学生、高校生になっていました。50代を前にしてまだまだ仕事を続けながら、仕事の他にも居場所を見つけ始めようとしていた頃です。

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本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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