【鷲羽岳(長野・富山)】 北アルプス最奥を歩く 1989年8月
折り返し
「久我さん、ここでお昼にしようか? もう小屋はすぐだし」
私は石の上に腰を下ろした。久我さんは靴を脱いで、川の真んなかのほうまで行って顔を洗っている。私のほうを見た。
「この水、飲んでも大丈夫ですかね?」
「川上にテント場がないから、いいんじゃない……」
私も川の水を両手で汲み、水筒にはポカリスエットの粉末を混ぜて水を満たした。
13時。私たちは黒部五郎小舎に到着。小屋ではなく、「小舎」と知る。ベンチに腰かけて下着を取り換え、汗だくになったシャツは小舎の前の石ころの広場に干した。風が何ともさわやかである。
黒部五郎岳の左奥に笠ヶ岳がすんなりと高い。笠の左には抜戸岳が奇岩を見せている。小石の上で、イワツバメが飛び、跳ね、鳴く。
私たちが降りてきた道を男性六人がやってきた。一人が小舎のなかに声をかけた。
「すいませ~ん。靴がこんなになってしまったんですが、何か靴ありますか?」
20歳前後の一見して山に慣れていない感じの男だった。運動靴の片方がぼろぼろになり、落ちていたワラジを靴底に縛り付けて歩いてきたのだ。
主人が出てきた。白髪だ。なかに入り何足か長靴を持ってきて若者の前に並べた。
「これ使ってください。大きさ、いいかな?」
若い男が履いてみた。
「ちょうど良いです」
と声が弾む。見ている五人の仲間たちも嬉しそうだった。
「いくらですか?」
「金はいらん!」
「でもそれじゃ悪いですから……いくらですか?」
「金はいらんぞ!」
金は絶対に受け取らない、という言い方だった。主人の目に「義」があった。
「じゃあ、ジュースでも買えよ」
若い男は牛乳を6本買って、グループのみんなにも分けてあげた。屑箱に捨てられた若い男の靴は、スポーツシューズのくたびれたものだった。
履きなれたものは靴擦れしなくていいかもしれないが、北アルプスの険しい山道を長い時間歩いたら、こんなことになるのだなと教えられた。