第三章 望みどおりの人生

わたしは軽くおじぎをし、お盆を抱えて部屋を出ようとした。すると梁葦さんは、

「ちょっと待って。わたし、今日はあなたにも会うためにきたの」

と言ったので、わたしは身構えた。

「城屋の工場のことは、いま大きな問題になっているの。元女工たちも声を上げて、闘おうとしているのよ。あなたも、このまま泣き寝入りしてはいけないわ。あなただけじゃなくて、他のたくさんの、搾取されて苦しんでいる労働者のためでもあるのよ」

梁葦さんはいかにも熱を込めてしゃべっていたが、わたしはそらぞらしさを感じた。

「他の人がどう思っているのか知りませんけど、わたしは城屋の会社に不満はありません。落雷事故のあとも、よくしてもらいました」

梁葦さんは、ため息をつきながら言った。

「あなた、子供の頃から家でも学校でも、耐えることは立派なことだと教えられてきたでしょう。我慢することを、あたりまえと思ってるんじゃない?」

「はい」

「それはまちがっているの。あなたはそうやって、いいように利用されているのよ。不当なことに対しては、きちんと怒らないと。我慢していては、なにも解決しないわ」

「……わたしは『告壇』という週刊新聞で、同僚だった人が城屋を告発している記事を見ましたけど、あれはほとんど嘘です」

わたしはそう言ったが、梁葦さんはわたしの方を疑っていて、聞く耳を持たなかった。

「わたしたち女はずっと、ひたすら耐えることが美徳とされてきたけれど、もっときちんと、権利を主張しないと。

みんな、しあわせになる権利があるのよ。あなたは、望みどおりの人生を生きることができるの。それはすばらしいことなのよ」

わたしの不信感は、はっきり不快感に変わった。わたしは、はっきり言った。

「わたしは望みどおりの人生を生きているわけではありませんが、それでもじゅうぶんしあわせです」

梁葦さんは意外そうな目でわたしを見た。ほんとうに不愉快な人だ。

「わたしは健康ですし、働く所もあって、日々の暮らしには困りません。大切な家族もいます。ありがたいことだと感謝しています」

梁葦さんは、わずかに口元を歪めて押し黙った。険しくなった目には、わたしに対する苛(いら)立ちがあった。無知と侮(あなど)っていた女が、自分の意見をはっきり言うのが、腹立たしいのだろう。

険悪な沈黙の中、星炉さんが声をかけてきた。

「沙茅さんには、いろいろ頼んでいることがあるから……」

わたしは今度こそ、客間から立ち去った。