また考古学者は遺跡の発掘に際し、発見をすぐ文献学上の登場人物に結びつけたがる。古墳の発掘調査をすれば卑弥呼の墓だろうと考え、大規模な環濠集落が見つかれば邪馬台国だという。

その論拠は時期が一致する程度のことであっても、いつの間にか定説になることもある。学者は成果を求められる故に発見物に何らかの仮説を立てる必要が生じる。性急に結論に至るために、手っ取り早く史書の記述に根拠を求めがちになる。

また「知っていたけれど書かなかっただけかもしれない」解釈も、歴史学者がよく採る立場である。邪馬台国や「倭の五王」に関して『記紀』は全く記載していない。

『記紀』編纂の実務者は、国史とは何かを知るために、中国の史書を参考にしたはずである。

『宋書』によれば「倭の五王」は大将軍を自称し、皇帝に大将軍位の除正を繰り返し求めた。「倭王武」はついに安東大将軍に除された。しかし『記紀』には歴代のどの天皇も大将軍位を望んだことや、除正されたことに関する記事はない。

『記紀』の編纂者は「天皇が大将軍に除されたことを知っていたが記さなかった」のか、「除されたことを知らなかったので記載できなかった」のか、それとも「天皇家とは関係がなかったので書かなかったのか」などを比較検討すれば、答えは明らかだろう。

『宋書』に書かれた倭国の記事を無視する態度は、「大和天皇家」がこれらの史実と無縁であることを物語っているが、「書かなかっただけかも」解釈を執拗に推し進める歴史学者には自身が陥る悪癖に気づいてほしいと思う。

前段で「大和天皇家」と書いたが、一般的には「大和大王家」と表現されている。しかし本随筆では「大和王権・大和大王家」という用語は空疎で意味をなさないと論じている。

倭国全体に支配を及ぼす「大和政権」に先行し、大和あるいは近畿地域にのみ影響力を持つ政治勢力として「大和王権・大和大王家」に代わり「大和王朝・大和天皇家」と表現することにした。

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