第3章 貧困に耐えた中学時代
父を送る
兄の言う通り父は、家が一番貧しい最中に息を引き取ったのです。そんな父を思うと、とてもふびんでした。
しかし兄は、充分に親孝行をしていたと思いました。父にとって兄は、誇りであり自慢の息子でした。記憶があいまいになっていましたが、初対面の人に会うと必ず兄の話をして、とても嬉しそうにしていたのです。
父は五十六歳でした。
父の戒名を今でも覚えています。父の名前の「勝」の一字と、生前の仕事にちなんだように鉱山の「鉱」と言う文字が入っていました。その位牌を見た時、父の人生がその中にそっくり凝縮されたような、不思議な気持ちがしました。
お葬式は、ご近所の方々が全部段取りをして手際良く進めて下さり、飛脚の話も聞こえてきました。連絡を受けた叔父さんや従兄の方々が遠い所から来て下さいました。
お通夜の晩に大人の人達は皆でお念仏を唱え、お坊さんはお経をあげて下さいました。次兄はお経を聞きながら、
「俺は何だか涙が出ない」
「何故だろう」と呟いていました。
私がつらい時に涙が出なかったように、貧しさは涙さえも奪ってしまうのでしょうか。兄はとてもつらそうでした。私はお念仏やお経を聞くと、自然に涙が溢れてきました。
その夜遅く担任の先生と大勢の友達が来て下さいました。私は皆の顔を見た途端、急に胸の奥から突き上げてくる物を、抑え切れませんでした。我慢しきれずにしばらく泣き続けてしまったのです。何故あんなに大きな声で泣いたのか、自分でも分からないのです。
風呂場横の裏木戸の薄暗い中、先生も友達も私の泣き止むのをじっと待っていて下さいました。そして先生は帰る時に「寂しくなるけど、頑張らないとね」と言って下さいました。
次の日はお葬式です。当時のお葬式は、自宅から火葬場(土葬ならお墓)まで遺体と共に家族や親族、そしてご近所の組内の方々が、長い行列を組んで歩いて行くのです。
父は火葬でした。私の家から火葬場まで、町の大通りを、一時間近く歩いて行きました。思えばその大通りは、父の仕事が順調な頃に新年の「初荷」でミカンや紅白の餅を撒きながら、オート三輪車を走らせた道でした。
父は最後に、その思い出の道を通って終の世に旅立ったのです。下校中の友達も何人か見ているようでした。私はひたすら下を向いて、母や兄達の後をついて行きました。
父が世を去ったのは十二月末でした。すぐに新しい年を迎え、そして父のいない寂しい冬が足早に過ぎていきました。