〈恵介〉
何ということだ。八郎が縁談を断る理由は、どう考えても尋常ではない。政二兄の妻の房子が好きだ。ずっと前から愛しているから、他の女とは結婚できないだと。
房子とは一体どういう女だ。長崎の貧しい炭鉱夫の長女で、満州にまで働きに行って親に仕送りをしていたと聞いて感心していた。日本に引揚げてから、政二兄は家族が養えずに結核になり、房子は熱海の旅館に住み込みで働いた。逞しい女性だとも思った。
入院した政二兄とうまくいかず離婚してからは、房子が自立できるように、美容師免許を取る学校の学費も出してあげた。行く行くは辻堂にでも美容院を建ててあげ、子供たちと生きていかれるようにとまで先々のことを考えていた。武則と忍は僕の養子になったが、近くに母親がいれば安心だと思っていたのだ。
八郎は前から好きだったと言ったが、政二兄と結婚していながら、子供たちの母親でありながら、八郎の心を惑わせるとは何という女だ。許せない。汚らわしい。出て行きなさい。誠司と廣海を連れて九州に帰りなさい。
〈八郎〉
恵さんは嫂さんを罵倒して激怒した。私には怒ることがある兄だが、頭は良いし、六歳も年上だし、第一素晴らしい映画を作る監督として尊敬している。自分は足元にも及ばない人間であるが、こんなに激怒するとは思ってもいなかった。
嫂さんは自分を誘惑したことはないし、自分もまた嫂さんに自分の気持ちを話したことはない。徐州から数えると十年もの間、兄嫁と義理の弟という関係の中で、気心は知れていたが。
【前回の記事を読む】引揚げ後の八郎の日本での生活は、貴重な思い出がズタズタになるほど、惨めなものに…