第3章 山心の発展期
【北岳】満天の星空に流星群 〜1986年8月(49歳)〜
辛抱と喜びの等高線
午前3時40分、目が覚めたので外に出てみた。昨日の午後は霧でよく見えなかった鳳凰山が、夜明け前の空にシルエットで姿を見せている。私と久我さんは今日の快晴を確認して、再び小屋に入った。
午前4時朝食、午前5時出発。私たちは「草すべり」のコースを登る。今日は最初から登りっぱなしの3時間だ。たちまち汗。振り返って下を見ると、白峰御池が水たまりのように小さい。若い久我さんはピッチが速い。
「久我さんの前を歩くと、追いかけられるようで疲れるよ」
「そうですか、じゃあ僕が先に行きます」
「草すべり」は500メートルの直登だ。左上のほうに「北岳バットレス」が大きな岸壁を見せている。鳳凰山をときどき振り返りながら登る。先に登る久我さんは、足元に花を見つけては三脚を広げて高山植物を撮っている。遅いペースの私が追いつくと、彼はまた自分のペースで私から離れて先に行く。
今朝、私たちより早く出発した昨日のウイスキーの二人連れが、上のほうで休んでいた。
「あれ、追いついちゃったんですね」
と私が言うと、
「いや、もう頂上から下りてきたんだよ!」
と冗談を言う69歳。
山に来て山を登っていることが、嬉しくてたまらないといった顔だ。川口の人が所沢の人のほうを見ると「さあ行くべえ」と立ち上がった。
さらに2時間登ると、高い木がなくなり這松帯になってきた。南アルプスは北アルプスよりも森林限界が高いようだ。紺色に澄んだ青空。登る斜面は花、花、花……花だらけ。やっと道も緩やかになり、「忍耐登山」も一区切りした。
「ここまで頑張れば後は楽」ということは人生にはよくある。これから「快楽登山」の始まりだ。
小太郎分岐に出た。目の前に、頂上がのっぺらで左右に長く、北アルプスの雲ノ平から見た薬師岳に似た山が見える。
(これが仙丈ヶ岳か!)
その後ろが甲斐駒ヶ岳のはずだが、雲で見えない。小太郎尾根は這松の茂る岩稜が続く。いくつかの小さなこぶを越えると、「肩の小屋」に着いた。
「地図の時間通りですね」
「写真を撮りながらのゆっくりだったけどね」
「この位置からの”肩の小屋”の写真、本でよく見るね」
肩の小屋から頂上へは、岩がごつごつした登りだ。また高いピークが現れた。北岳のピークは、双耳峰のようになっているのだ。
頂上で会った若者たち
北岳は日本で富士山に次いで高い山だ。3192メートルの頂上には、丸太のベンチがあった。周辺で大学生の6人組がガチャガチャお喋りしている。
一人が丸太のベンチの上に立った。両手を口に当てて叫び出した。
「俺にはユキ子という彼女がいる! 俺は愛車のカローラに! ユキ子を乗せて! 東名自動車道をブッ飛ばすぞ~……。ユキ子~、好きだよ~~。以上!」
全力で叫び終わると、男は丸太から降りた。下で5人が迎えた。
「どうだ、言いたいこと全部言えたか?」
「すっきりしたよ」
それにしても大きな声だった。グループ以外の周りの人たちも、叫び声を聴いて、皆ニコニコしている。若いって、いいな。
北岳、間ノ岳、農鳥岳の三つの大きな峰を、昔の人は「白峰三山」と呼んだ。初夏になると雪の解けた後が鳥の形になるので、土地の人は農耕を告げる鳥、つまり農鳥岳と呼び、一番北の峰を北岳、二つの峰の間の山を間ノ岳と名付けたらしい。
白峰御池でテントを張っていた幕張高校の生徒たちが、ザックを背負って登って来た。
「わ~、着いた、着いた~」
男女混合の十人が次々に登って来た。高校生たちは、順番に頂上のポールに手を伸ばす。
「タッチ!」
「はい、タッチ! タッチ!」
感動的な顔、顔、顔。汗で輝いている。私は自分の子も、学校時代に仲間たちと、こんな感動的な体験をしてもらいたかったと思った。
私たちは北岳の頂上で、1時間ほど粘ってみたが、遠方の霧が晴れそうもなかったので、北岳山荘に下ることにした。こちらの斜面も花が凄い。山荘はすぐ下に見えたが、かなりの距離があった。
山荘に宿泊を申込み、部屋に落ち着いたが、宿泊客が次々に入って来る。夕食の放送で久我さんと食堂に行く。汗をかいた後の味噌汁が、唸るほどうまかった。
消灯になり眠りに入ったが、右は久我さんが、左からは知らない大きな男がブルドーザーのように攻めてくる。一畳に二人。半分眠りながら、満員電車に乗っているようだった。
3日目 流星群と出会った夜
夜中の3時に目が覚めた。
上半身布団から起き上がって、カーテンのないガラス窓を見た。
オリオン座の三つの星が綺麗に並んでいる。この星空はいましか見られない。私は久我さんを静かにゆすって、声を潜めながら、
「星が凄いですよ、外に出てみませんか?」
と耳元でささやいた。
「そうですか」
彼は眠そうだったが、私のあとについて山荘の外に出た。
凄い星空だ。空にはこんなに星があるのかと驚く。
間ノ岳方面に明るく輝く星。天の川が白く大きく、さらしの布を空に放り投げたように夜空を被う。北岳山荘の広場が、大きな半球に包まれた空間のようだ。
「あれ! 流れ星!」
「あれ、あっちにも」
しばらくの間、数十秒おきにあっちこっちの方角で流れ星が次々に見られた。午前4時5分前後の、数分間の出来事だった。
朝食を済ませた後、大きなザックは山荘前に置いて、カメラと水筒だけ持って間ノ岳まで往復した。塩見岳、農鳥岳、赤石岳……。南アルプスは一つひとつのピークが、遠く離れている。
北岳山荘に戻り、広河原に下山。シャワー500円。最高!
その後何年かして、私は久我さんと新宿でお会いして飲んだ。北岳のあの日のことが話題になった。久我さんは中学校の理科の教師である。
「生物や化学の分野が終わって天文星座のところになると、生徒にこのときのことをいつも熱っぽく語っていますよ」
彼は熟睡中に私に起こされたことを、いまでも感謝してくれていた。