まえがき

『秘事作法』は一冊の読み物として著すには無理があります。その内容たるや、奥御殿での「性の作法(テクニック)」を門外不出の秘伝として、微に入り細に入り書き連ねただけのもので、これではとても物語としての構成は無理というものです。

有名な『性生活の知恵』は、作者が医学博士謝国権(しゃこくけん)ということもあり、その内容には学術的な要素も含まれていてベストセラーとなりましたが、『秘事作法』は単にソノ事ばかりを延々と連ねてあり、読み進めるうちにどんな読者も些かうんざりして途中で放り出すに違いありません。

今日まで『秘事作法』が比較的、世に知られず出版もごく一部に限られていたのもそのようなことが理由でしょう。

これは備前岡山藩の宮廷女官、秀麗尼(しゅうれいに)が著したとされていますが、私には、後の好事家(こうずか)が夢想に任せて書き連ねた好色本としか思えません。奥御殿のこれらが本当であったとすれば、そこは、まさに常軌を逸した淫靡(いんび)極まる魔界といえましょう。

しかし、交合は人類のみならず世の中のあらゆる生き物の存続を永遠とするための絶対条件で、何人たりとも否定できない神聖な行為で、その快美感は忝(かたじけな)くも男女の道、世の中の摂理でもあります。

この厳粛で奥深い世界を改めて小説として挑戦したいと思い、平安時代の事件「薬子(くすこ)の変」と組み合わせることで読み物に仕立て上げました。

『秘事作法』には理解しがたい記述や、同意語の繰り返し、また真偽のほどが疑われる荒唐無稽な情景描写も多いため、そのあたりを私訳本に改編して解釈にも多く手を加えました。

弘仁元年(810)に起きた「薬子の変」は、天皇を唆(そそのか)した悪女と伝えられる藤原薬子(ふじわらのくすこ)と、平城天皇の悲しみを表したものとして、これまでに幾人かの作家が発表しています。

 

[薬子の変]とは

この事件は平安初期に起きた嵯峨天皇と平城上皇および側近との抗争であり、平城上皇は弟の嵯峨天皇に譲位後、寵愛する藤原薬子とその兄の仲成ら多数の公卿・官人を率いて平城京に居を移し、嵯峨天皇の朝政に干渉して「二所朝廷」と呼ばれる対立を引き起こしたものです。

弘仁元年(810)、上皇は重祚(ちょうそ)を謀り、僅かばかりの人数で挙兵を企てましたが坂上田村麻呂の率いる朝廷軍にさえぎられ、上皇は平城京に戻り出家、仲成は射殺、薬子は服毒死して事件は三日で終結しました。

薬子は出生不詳、帰途人知れず自害、西海道観察使藤原縄主の妻でありながら、長女の聟(むこ)の平城天皇と醜関係を結び、その寵をよいことに兄の仲成と共に宮中に権力を振るいましたが、退任後、自身の失墜を恐れて上皇を唆して乱を企てた悪女とされています。