第1章 私の修行時代
私の勉強履歴と来日の由縁
時代が変わったので、準備して
1978年3月、中国の西安理工大学金属材料学科に入った後、二つのクラス70人の中でいつもトップの成績を取り、時間があるときは図書館で世界の物理や化学者のノーベル賞の受賞者たちの伝記をよく読みました。偉い研究者や学者になりたくて、お金には無頓着で儲けることが嫌いでした。また、人との会話も時間の無駄で、それより本を読む方が得ることが多いと思いました。
君なら修士試験で出られるから大丈夫
1982年2月、大学を卒業しました。同学年70名のうち、必ず一人は当時辺鄙な場所だった新疆 (しんきょう)に行かなければなりませんでした。新疆に行くことになったら一生そこで暮らさなければならない可能性があるから、誰も行きたくありません。担当の先生は私に「ジンさん、君は勉強ができるから、行っても修士試験に合格し新疆を出られるから大丈夫」と言いました。私も「いいですよ」と返事しました。
西安から新疆まで電車で4泊、丸3日間かかりました。新疆のウルムチ市にある第二自動車工場に配属されて、熱処理の職場で1年半ぐらい働きました。工場の同じ職場で一緒に働いた西安交通大学卒業の張留建さんと大変気が合って、同じ部屋に泊まり、人生についてよく深く話し合いました。
張さんは私より年上で、社会経験が豊富で頭が良くて勉強もできます。特に管理能力が優れて、筋を通す人で、その後工場長となり、中国で有名な自動車部品工場の責任者となりました。現在はなかなか会えませんが、一生忘れられない親友です。
ハルビン工業大学大学院に入学
厳しい修士試験をパスして私は1983年9月、ハルビン工業大学大学院に入学しました。
電車で中国の一番西の都市・新疆から一番東のハルビン市まで6日間かかりました。大学院では3年間金属の摩擦摩耗を研究して修士号を取得しました。また初めて日本語を外国語として勉強しましたが、本を読んだり少し文章を書いたりできる程度でした。
ハルビン工業大学にいたとき、夏休み期間学校に来た千葉工業大学の学生と日本語を少し話したことがあり、挨拶ぐらいしかわかりませんでしたが、初めて日本人の生の声が聞こえました。
1986年7月、修士学位を取って卒業した後、北京の会社か、あるいは政府機関で働こうとしましたが、当時の卒業制度では、なかなか難しくて、西安理工大学の先生に呼ばれて母校に戻って、金属学の講師として働きました。同時に若い教師と修士を管理したりしたこともありました。