冬輝の帰りは日を追うごとに遅くなり、とうとう月に一度か二度は帰らない日まで出てきた。そんな日は自宅という名の深海で、日増しに膨らんでいく下腹ばかりを眺めて過ごした。論文の執筆さえ終われば、という冬輝の言葉以外に拠り所もない。少しでも気を緩めると、深海の水圧に押し潰されてしまいそうな日々が続いた。
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。春の香りが漂い始めた時期だというのに、真冬に逆戻りしたような冷え込みだった。雨粒が忙しなく地面を跳ねる中、産科の帰路を慎重に歩く。信号の変わり目や駅の発車ベルが鳴ったくらいでは、もしもの転倒が怖くて早足にすらなれない。
定期検診の結果は順調で、妊娠は二十三週目に入っていた。最近では胎動も珍しくなく、小さな命を育む喜びは日増しに大きくなっていた。依然として寂しい日々は続いていたが、気持ちは前よりずっと落ち着いている。自分が独りではないことを、常に身体で感じているおかげだ。
玄関を開けて靴を脱ぐと、そこはかとない薄気味悪さに足がすくんだ。不審に思って家中を見回ってみたが、部屋や家財道具に目立った変化は見られない。
僅かに開いているクローゼットが目に入り、何気なく取手へ手を伸ばした。途端に全身の力が抜けて、その場にへたり込む。あるはずのものが無い。慌てて家中を確認したところ、衣服はもとより、髭剃りや歯ブラシのような日用品から、分厚い専門書に至るまで、冬輝の持ち物だけがすっかり消えている。
その日、冬輝は帰らなかった。