八郎が生涯大事に持っていたものが二つある。

一つは、貧しくて学校に行かれなかった父に教えた漢字を、周吉が初めて筆で書いた「父」という文字。額に入れて、両親の写真とともに終生大事にし、仏壇に飾っていた(「祖父母(周吉とたま)──尾張屋のはじまり」の章に写真あり)。

もう一つは、八郎がいつも首から下げていたお守りの中にあった。母・たまからもらった自分の臍の緒である。二十歳から五年間中国で歩兵隊だった八郎はいつも最前線にいたが、このお守りのおかげで、鉄砲玉が自分を避けていった。母がいつも自分を守ってくれたのだと思っていたのである。

仏壇に花を飾り、明かりを灯し、朝晩二回お茶をあげて手を合わせていた八郎の姿を、静岡で長く暮らした忍(筆者)は、毎日見て育った。

浜商を卒業後、八郎は満州に行ってボロ屋になるんだと意気込んだ。当時の「尾張屋」は支店も本店も栄え、使用人もたくさんいる浜松屈指の漬物問屋になっていたが、この子は何を言い出すのかと両親は戸惑った。

父・周吉の影響なのか、八郎の持論は「職業に貴賤はない」である。さらにボロ屋は最低な仕事だから、金持ちは参入しないだろう。ボロ屋で大金持ちになって、貧しい人の力になろうと思った。

昭和の大不況時、八郎がまだ小学生の頃、家にあるだけの米を炊いて握り飯にし、天竜川の橋のたもとで、職を求めて行き交う貧しい身なりの人々に、何日も握り飯を配る手伝いをしたことがあった。金さえあれば貧しい人も助けられるということを、長兄・寛一郎の行いから学んだのである。

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