これは、八郎が、兵役を除隊して、兄・政二の店「木下洋行」の手伝いをするために徐州を訪ねて、初めて兄嫁・房子に会ったときに作った詩である。

よりにもよって敬愛する政二の妻に恋心を抱いてしまった八郎。二十五歳まで女を知らず、女の視線を無視して、男らしく純粋に生きてきたと自負する八郎の初恋。

たとえそれが兄嫁であったとしても、どうすることもできず、唯々苦しみだけを背負って生きていくことになることを知らないほど、純真だったとは。

八郎が生まれたのは一九一八(大正七)年の六月。長男・寛一郎はすでに十六歳。その下に政二、敏三、正吉(恵介)、忠司がいて、八郎は六男であった。しかし、周吉とたまにとっては、初めに亡くした二人の子を入れると八人目になる。八は末広がりで縁起が良い字でもあり、八郎と名付けられた。

木下家の男たちは、どの子も美男子で顔立ちが良いが、八郎もまた目の大きい鼻筋の通ったかわいい男子である。末子として甘やかされ、両親に大事に育てられた八郎は、やんちゃで人懐っこい性格だった。

子供の頃は、近くの五社神社で遊ぶガキ大将だったが、どんな友達とも分け隔てなく付き合い、さっぱりした気性は、長じて竹を割ったような男だと言われ、曲がったことは大嫌いだった。

周吉とたまは、子供たちにお金を自由に使わせていたが、八郎もまた、お小遣いは店の金庫から自由に持っていった。自分のためにだけ使うのではなく、焼き芋をいっぱい買って遊んでいたみんなと一緒に食べるのである。

焼き芋が菓子パンや団子になるときもあった。二歳上の忠司と六歳上の恵介は、いつも二人一緒に遊び映画館によく行ってしまう。八郎は兄弟とはあまり遊ばなかったのである。

浜松商業高校(以下浜商)に進み剣道三段を取る。友達を喜ばせるのが好きな八郎は、小遣いで酒を買い、バンカラ仲間の友達の家に集まって呑みながら、天下国家を論じていた。しかし学校にばれて、退学処分になるかもしれないことになってしまった。

呼び出しを受けた母のたまは、学校に出かけて行って頭を下げた。幸い十一歳上の兄・政二の友人が、浜商の教員にいたため穏便に済まされた。学校から家に戻ったたまは、一言も八郎を叱らなかった。ただ、「呑み過ぎてはいけないよ」と諭しただけである。

八郎は、両親から溺愛されて育ったと思っている。しかし、両親を喜ばせる特別な才能はなかったので、小学校の頃から得意な肩もみをした。青年になり力も出てきた八郎は、この日も母の肩をいつまでもいつまでももんだのである。