手招き
ハタチの時、一人暮らしをはじめた友人Aの家に遊びに行きました。西横浜にある二階建てのアパートで、上階の一番奥まった部屋が、彼の新居です。招かれたのは私とB。もう一人Cがいるのですが、急用で遅れるとのこと。我々は、解禁されたばかりのお酒をチビチビ飲みつつ、他愛のない話をして、時間を潰しました。
山あいの彼方に日が没し、橙色のおぼろ月が「我を見よ」と自己主張をはじめた頃、よもやま話は怪談奇談にシフトしました。一人ずつ順番に、怖い話を語ろうというのです。
暴走族のレディースが年に一度執り行う『怖い顔GP』の話。弱小ボクサーに亡くなったチャンピオンの霊が憑依し、生前のライバルと戦う話。ひとりでに鳴る音楽室のピアノに、吹奏楽部が伴奏を加える話など、活字化すれば、優に本一冊は書けてしまいます。とりわけ印象に残ったのは、これからお話しする、友人Bにまつわる出来事。
「なぁ皆、約束できるか? 誰にも漏らさないと。人に知られちゃマズい話なんだ。『打ち明け話コンテスト』なんてのがあったら、大賞獲得の名誉と、ブタ箱行きの不名誉を、同時に授かっちまう。いいか? 絶対にナイショだぞ。
ウォッホン! 俺がこの世で最もおそれるのは……ハンドだ、手のオバケ。
子供の頃、ダチンコの家から帰る途中、湖の前を通った。水死体がよく上がるので、有名な場所だ。地元住民は『あの湖には、人をひきずりこむ怪物が住んでいる』と、信じて疑わない。家族も『あぶないから、あそこには近づくな』と、念を押すほどだ。
従って然るべきだが、その日は黒雲がたちこめ、雨がポツポツ降っていた。風もビュービュー吹きすさび、嵐になるのは時間の問題。迂回すると、二十分の道草になる。
氾濫する気配がなさそうなので、思い切って水辺をつっきった。まっすぐ走ればいいものを、余計な好奇心が、足を鈍らせた。
《人をひきずりこむ怪物って、どんな奴だろう?》
そんな疑問が、頭をもたげたんだ。俺はおそるおそる、湖面に目をやった。すると……いたんだよ、奴が。青白いシワクチャの二本の手が、こちらにおいでおいでしていた。ひきずりこまれちゃ敵わんと、脱兎のごとく逃げ出したよ。
無事に帰還できたが、恐怖は依然としておさまらなかった。夕飯はマズいし、勉強にも身が入らない。ベッドに入ってなお、ハンドの奴が寝床に侵入し、湖へ連れ去るんじゃないかと疑念にかられる。その晩、俺はベッドの下に隠れ、毛布にくるまって一夜を過ごした。お蔭様で、なんとか生き延びることができたよ。だが事件は、これで終わりじゃなかったんだ。