第二章 カナダ赴任

紗季と晃司が初めてカナダのお父さんお母さんに会ったのは、もう三十年以上前のことだ。

スティーブストンにある漁網会社の支店に晃司が赴任したのは、一九八四(昭和五十九)年の夏だった。スティーブストンは、リッチモンド市にある日系人が多く住む漁師町だった。

晃司は東京支社に勤務していたが、そこから、バンクーバーへ飛んだ。紗季は荷物を本社がある兵庫県の空き社宅に送って、鹿児島に一旦戻った。そして一か月後にカナダのアパートが決まると、鹿児島から成田経由でバンクーバーへ向かった。

晃司の父がカナダにもって行けと、段ボールいっぱいのイワシのさつま揚げをもたせてくれたが、八月末の三十八度を超える暑い日だったので、腐ってはもったいないと半分は実家に置いて、もう半分は羽田から成田まで見送りに来てくれた晃司の弟に分けた。

弟の陽司は東京の大学を就職のために一年留年中で、就活中の忙しい合間を縫って会いに来てくれた。成田に着くと熱風が吹いているようだった。

「陽司さん、暑い中忙しいのにここまで見送ってもらってありがとう。就職頑張って、何かあったらいつでも連絡してね」

紗季は陽司に言った。

「姉さんも体に気を付けて、兄貴によろしく」

陽司は紗季が中学校の教育実習で教えた生徒だったので、小さい頃から知っていた。優秀だった陽司はどうしても東京の大学に行きたいと一浪して目指した大学に入ったが、生活が厳しくアルバイトに明け暮れたので就活が思うようにいかず、また一年卒業が遅れてしまった。今度こそ失敗は許されないと肝に銘じているようだった。

成田からの機内では、メキシコの大学で教鞭を執っている日本人男性と隣り合わせになった。

バンクーバーで飛行機を乗り換えるらしい。機内食の和食は、見るからに弁当の見本のように着色を施したような感じで食欲が失せ、お腹は空いていたが少し箸を付けて終わった。

隣の人に、

小食こしょくですね」

と笑われた。きっとこの人は海外生活が長くて「少食しょうしょく」という日本語を忘れたのに違いない。

バンクーバー国際空港に着くと、晃司と支店長のシャーキーが迎えに来ていた。暑い日本から着くと、バンクーバーの町は全体にクーラーが効いたように冷風が吹いている。

紺のスカートに白の半袖シャツを着て、まるでちょっとそこに出掛けるような格好でサンダル履きで降り立った紗季は、足元から寒さを感じ、クールな風に思わず身が震えた。

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