【忠節(ちゅうせつ)・第二】
世界各国において国の制度は色々と異なっていますが、その国民の中心となって、まとめていく者がいない国はありません。
全ての国民は、その中心の者を敬い、その国を愛し、その職に勤めながら自分の役割を尽くし、そのことによって、その恩義を返していくことが人の守るべき大切な道です。
尚さら、我国は万世(ばんせ)一系の皇室が存在しており、遥か昔から現在に至るまで、そして、これからもずっと変わらない国として国民が当然に守るべきものです。
このような理由から国民の忠節について、子供の孝行と並んで、人として守るべき道の最も大切な義の道なのです。
○国史
①日本書紀(巻第三十・高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)・持統天皇(じとうてんのう))
【16】「大伴部博麻(おおともべのはかま)」
飛鳥時代の頃のお話です。
大伴部博麻という人は筑紫上陽咩郡(つくしのかみつやめこおり)(福岡県八女市(やめし))の兵隊でした。
第三十七代斉明(さいめい)天皇が即位した後の七年頃、百済(くだら)(朝鮮半島南西部)の国を救うための戦いがありました。
博麻は、その戦いの中で唐の国の兵隊に捕らえられます。
第三十八代天智(てんじ)天皇の御代(みよ)に、土師富杼(はじのほど)、氷老(ひのおい)、筑紫薩夜麻(つくしのさつやま)、弓削元実兒(ゆげのもとみる)の四人は唐にいました。
その時、四人は唐の国が日本を攻めようとしている計画を知ったので、早く日本に帰って伝えたいと考えます。しかし、日本に帰るためのお金や食糧もなかったので非常に困っていました。
そこで、博麻は富杼たちに言います。
「私は、もう、子供を亡くし、一緒に帰ることができません。私の体を奴隷として売ってから、そのお金で、あなたたちは日本に帰ってください」
富杼たちは、感謝してこの願いを受け、ついに日本に辿り着き、日本に危機が迫っていることを伝えることができました。
博麻は独りで唐の国に残り、三十年が経ちました。
第四十一代持統天皇が即位した後の四年の頃、博麻は新羅(しらぎ)(朝鮮半島南東部)の国の使者である大奈未金高訓(おおなまきんこうくん)等に従って、やっと日本の筑紫(つくし)に戻ってくることができました。
陛下は詔(みことのり)を下して、博麻の忠の心を大変喜び、官位である務大四(むだいし)をお授けになり、さらに貴重な織物五匹、綿十屯(きん)、布三十端(たん)、稲一千束(いっせんそく)、水田四町(ちょう)をお与えになり、父族、母族、妻族に対する税と労役を免除しました。