【前回の記事を読む】国の役職を勧められたが断った男。「陛下に尽くす出来る月日は長くありますが…」
第二章 幼学綱要を読む
〇支那史
15明史(みんし)(明史二百九十七・列傳(れつでん)第百八十五・孝義(こうぎ)二、歸鉞(きえつ))
【15】「歸鉞」
明の時代(西暦1500年位)の頃のお話です。
明の正徳中(しょうとくちゅう)、呉(ご)という所に歸鉞という人がいました。
鉞は早くに母を亡くします。父は再度、結婚して子供が一人生まれました。
この頃から鉞は親から愛されることがなくなります。
父が鉞を責めると、母は大きな棒を探して父に与え、それを渡して言いました。
「手を怪我しないように」
家は貧しくて食物が足りず、米が炊けようとすると、母は摘まみ食いをして鉞のせいにしました。
父が怒ると鉞は家を飛び出し、父はさらにその後を追いかけていきました。
その間(かん)に、母は自分が生んだ子に米を与えてお腹を満たしました。
鉞が帰ってくると、母はまた、言いました。
「お前が家にいない時は、外で泥棒をしているのだろう」
そして、棒で叩くのでした。
鉞は家の入口でふさぎ込み、中に入らずに涙を流しました。
近所の人も皆、鉞を可哀想に思っていました。それから父が亡くなります。
母は自分の子と二人で暮らしていました。鉞を遠ざけ面倒を看ることはありませんでした。
その後、鉞は町に出掛けて物を売って暮らし、たまに、こっそりと弟に会って母がきちんと食事を取っているのかを問いました。そして、弟に甘いお菓子を与えました。
ある年、村を大飢饉が襲いました。
母と弟は食べるものがなくて生活することができなくなります。
鉞は涙を流しながら、二人に自分の家に入るようにお願いします。
母は今までの自分のことを恥ずかしく思い、鉞の真心ある願いに心を動かされて鉞に従いました。
鉞は食物を得ると、まずは母と弟に与えて自分自身は空腹のままでいました。
その後、弟が亡くなりました。
鉞は母を一生面倒を看て暮らしました。そして、自分が亡くなるまで母に対する辛い思い出について、一切何も言いませんでした。