すぐにでも逃げ出したいが、疲れ果てた身体は駆け出すどころか、立ち上がることさえままならない。意識の中に、どこまでも続く暗いトンネルがちらついた。あまりの息苦しさに、脂汗が止まらない。

白いニットの裾をめくって、何度も顔を拭った。大量の汗で湿っているニットはひやりとするばかりで、拭いた後の爽快感はまるでない。ただその冷感のおかげで、これが現実ということだけはよくわかった。

すぐ傍で叫声が上がり、思わず肩をすくめた。赤子の産声だ。すっかり汚してしまったベッドの上で、小さな手を固く握り締め、この世の一員になったことを声高に知らせている。

咄嗟に手が伸びて、赤子の口を塞いだ。熱い吐息が、手の平の向こうで必死に荒ぶっている。塞いではみたものの、泣き声はくぐもっただけで尚もフロア中に響き続けた。このままではつまみ出されるか、下手をすると警察に通報されてしまう。

赤子の噴火は激しさを増す一方だ。切羽詰まった手が、とうとう細い喉に伸びた。途端に音量が下がり、今まで感じなかった室外の気配が伝わってくる。好奇に満ちたざわめき。大勢の野次馬が、この部屋の前に集まっているようだ。

喉にかけた手が激しく震え出す。産声は勢いを失い、程なくしてぴたりと止まった。赤子の顔が不気味な夕焼け色に染まっている。ああ、この子は一度も光を見ることなく、暗いあの世へ行ってしまうんだ。

たちまち視界が滲んで、すべてがゆらゆらと溶けていく。涙で何も見えないはずなのに、赤子の眠るような顔だけははっきりと眼前に浮かんでいた。

私といても、辛いことばかりだよ──

喉へ伸びていた手を離すと、赤子は小さく溜め息をついて、すぐに皺だらけの赤い顔に戻った。目は開いていないが、母の気配は感じているのだろう。両腕を弱々しく伸ばして、その気配を摑もうと不器用に指を動かしている。

気がつくと、我が子を胸に抱いていた。衣服越しに温もりを感じると、鼻の奥がつんとしてさらに目が潤む。赤子は母の気配に安心したのか、先ほどよりも元気な産声を張り上げ始めた。なぜだろう、あれほど煩わしかった産声が今は歓喜の歌声に聞こえる。

キャリーバッグの中から洗いたてのタオルを取り出し、赤子を丁寧に包んで隅に寝かせた。部屋の外は先ほどにも増してざわついており、もはや赤子の号泣を上回る賑々しさだ。

陣痛の名残を噛み殺して、膝立ちになってみる。右へ左へと激しい目眩に襲われたが、壁に手をつき何とか踏ん張った。休んでいる暇はない。こうなってしまった以上、もうここにはいられない。