彼は、主君に対し、恩恵を利することを備えていた。しかし、彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し、増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

また築城のことについて造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、えり抜かれた戦いで熟練の士を使いこなしていた。(中略)友人達の間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術と表面だけの繕により、あまり謀略に精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波・丹後二か国の国主に取り立てた。

そして明智は都から四里ほど離れ、比叡山に近い近江の太湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城郭を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。

第2章 光秀と将軍義昭 

おふく

戦が終了した評定で、光秀様は戦功第一と信長様に激賞され、織田家で初めての城持ち大名に取り立てられました。そして、光秀様は、念願であった自分の城を、琵琶湖湖畔の坂本の地に築城することを許され、誰もが驚く美しい水城を完成させたのでありました。

しかし、これを機に幕臣を辞して正式に信長様の家臣になった光秀様は、図らずも将軍義昭様と信長様の対立の狭間に立つことになったのです。

元亀三年七月、光秀様は、完成近い坂本城天守閣に、最愛の妻・煕子(ひろこ)を伴い登楼し、共に歓び、光秀様の生涯の目標である『天下静謐(せいひつ)』のための第一歩を踏み出したのでありました。

1.光秀、幕臣を辞退

元亀三年(1572年)十二月三日<二条城新御所>

義昭

「何、光秀が来たと、会わぬ!光秀は幕臣でありながら織田信長に仕えたと聞く、不届き者である。放っておけ!」

上野清信

「されど既に数刻も待たせておりまする。織田家に仕えたとの噂もありますが、本日のところは、今だ幕臣であることに変わりませぬ。世間への聞こえもあります。少しだけでもお会いくださりますようお願い申し上げます。接見の間に控えさせております」

義昭

「光秀、今日は何用だ。その方、幕臣でありながら織田信長に仕えたと聞く。ゆゆしきことであるぞ」

【前回の記事を読む】比叡山焼き討ちの功労者として破格の褒美が与えられた明智光秀