14宋史(そうし)(巻四百五十九・列傳(れつでん)二百十八・卓行(たっこう)、徐積(じょせき))
【14】「徐積」
宋の時代(西暦1000年位)の頃のお話です。
宋の徐積は小さい頃から孝行の人でした。三歳の頃に父である石を亡くします。
毎日、父を求め非常に悲しみ、また、「孝経(こうきょう)」を読んでも涙を流して止まりませんでした。
母に孝行を尽くして、朝夕は礼服を着て親に挨拶し、胡瑗(こえん)という学者から学問を学びました。
年が三十歳位になると、国のために働くように求められ、それに応じました。
徐積は親を置いていくのが心配で、車の荷台に母を乗せて一緒に向います。
父の名前が石だったので、一生涯において石の器を使うことがありませんでした。道を歩いて石を見れば心から心配し、足で踏むことがありませんでした。
その後、母も亡くなると、おかゆも食べることができず、七日間が過ぎ、悲しみで声を上げ、ついには血を吐くこともありました。
それから徐積は墓の近くに小屋を建てて住んで三年が経っても苦しみで寝込み、墓の土を枕にして寝ることもありました。
いつまでも喪服を脱ぐことなく、ある雪夜には墓の側に伏せて、泣く声が途絶えることがありませんでした。
同じ学問を学んでいた呂溱(りょしん)がこれを聞いて涙を流しながら言います。
「亡き父母が、これを知れば涙を流すだろう」
喪が終わっても、葬儀の台座や敷物を片付けることが心苦しく、朝起きると必ずお供え物を供える姿は一生、普段の生活の一部のようでした。
徐積は小さな村に住んでいながら、世界や諸国の事を全て知り尽くしていました。
そのため、道義(どうぎ)、文学について東南地方に広がっていたので、皇帝は詔(みことのり)して徐積に対して、褒美として米や絹などを与え、楚州(そしゅう)という地域の教授に任命しました。
そこで学ぶ者は徐積を「節孝(せつこう)先生」と呼びました。