第一章
2
息苦しさで目が覚めた。
濃密な畳の匂いがした。
博昭は畳が敷かれた和室に寝かされていた。壁にはよくわからない掛け軸。柔という字だけは読むことできた。
腕時計を見た。ヤクザから取り上げたカルティエの腕時計。午後二時を少し回った時刻であると知った。
先ほどの襲撃からまだそれほど時間は経っていない。
和室の襖が開いた。
男が立っていた。
博昭を戦闘不能にした男。
男は右手にヤカン、左手にナイフを持っていた。そのナイフを自分の腹部に突き刺し、引きつった笑みを浮かべている。
脳内でアドレナリンが噴出する。
「冗談や、冗談。そう興奮すんなや」
男はヤカンをテーブルに置くと、ナイフを博昭の方に投げ捨てた。ナイフはおもちゃだった。
「忘れもんだ」
ドスのきいた声で男が言った。
そしてすぐに笑った。
「『忘れもんだ』っちゅうのは、『探偵物語』っていう昔のドラマで、主役の松田優作が言うセリフやねん。『探偵物語』。知ってるか? 工藤ちゃん」
博昭は男が何を言っているのかまったくわからなかった。
男は尻のポケットから財布を取り出すと、博昭に向かって放り投げた。博昭の財布だ
「悪いけど、調べさせてもろたで」
男は畳に座った。そしてカップにお湯を注いだ。室内に香ばしい珈琲の匂いが漂う。
「君、工藤言うんやろ。工藤ちゃん。探偵物語。松田優作の当たり役や」
男はそう言ってまた笑った。不気味な笑みだった。
「なあ、工藤ちゃん。君、やりすぎやで。もう少しで人殺しになるとこや」
博昭はまだ事態が呑み込めていなかった。理解できていたのは、自分がこの男に負けたということだけだ。
生涯初の敗北。
博昭は動揺していた、動揺している自分に気づいてさらに驚いた。
負けた。この俺が喧嘩で敗北した。
しかも失神。
「何もんだ」博昭は言った。
「風間。君は工藤。銀ちゃんと工藤ちゃんや」
そう言うと、男は突然、「ヤスーーー!」と大声で叫んだ。「立ち上がってこいー。ヤスー。立ち上がって
こいー!」
最後はほとんど絶叫だった。
「『蒲田行進曲』や。あれはええ映画やったなあ。あの風間杜夫は最高やったなあ。ちなみに松田優作の『野獣死すべし』も必見やで。あっ、工藤ちゃんはどちらかいうと、『探偵物語』というより、『野獣死すべし』やな」
「おい」
博昭は立ち上がった。 こんなふざけたおやじに負けるわけがない。油断だ。油断さえしなければ絶対に勝てる。
「おっ、工藤ちゃん。またごっつい殺気出して。嫌やなあ」
風間は不自然な笑みを顔に張り付けたまま珈琲を飲んだ。
「もう一度勝負しろ」
博昭は言った。
風間は考えているそぶりを見せた。
そして静かに息を吐いた。
「ええで。そやけど条件がある」
「なんだ」
博昭は聞いた。
「工藤ちゃんが負けたら、俺の言うことは何でもきかなあかん。命令や。ええか」
博昭は目を剥いた。いらついているのが自分でもわかった。
「いいだろう。立て」
風間が立ち上がった。
顔から笑みが消えていた。
風間の家には道場があった。畳にして三十畳くらいか。額には『虚』という字が書かれており、壁には白い道着が掛けられている。
「たまに近所の子供らに教えてんねん」緊張感のまったく感じられない声で風間が言った。パンツ一丁になりながら、道着に着替えている。
風間の肉体は鍛えられたボクサーのようだった。細身だが、無駄な脂肪のまったくない引き締まった体。
博昭はすぐにわかった。風間の体はボディービルダーのような作られた筋肉ではなく、実戦で鍛えられた筋肉。つまり、本物の格闘家だ。
「工藤ちゃんは空手か? そやろ? さっきの蹴り見てたらわかるわ」
柔道家だろうと博昭は踏んでいた。だが、他の格闘技にも詳しいらしい。さっきの数回の蹴りで、博昭が空手をやっていたことを見抜いている。
捕まりさえしなければ勝てる。
博昭はそう思った。
風間が帯を締めた。黒帯だった。
「よし、ええで」
風間は腿をぱんぱんと手のひらで叩いた。
博昭は風間と対峙した。
緊張が高まる。
博昭は中段に構えた。肩の力を抜いて右わきを締め、肘を体の内側に入れる。
風間は肩をぐるぐると回しながら、両手を軽く開いて前方に突き出した。
博昭は距離を詰める。
牽制の前蹴りを繰り出す。風間が右手でその足を払う。
動くと同時に博昭は右回し蹴りを力いっぱいに放つ。ブロックした風間の体ごともっていくほどの破壊力。
風間がバランスを崩す。追い打ちをかけるようにもう一発。風間がよろめく。
博昭は一気に間を詰め、正拳突きを繰り出す。
骨がきしむ音。仰向けに転倒する風間。
博昭は馬乗りになる。風間が両腕で顔面を防御する。
博昭は脇腹に数発のパンチを打ってから、顔面を攻撃する。
防御している腕の上から殴る、殴る、殴る。
一瞬の隙をつき、風間が下の体勢から蹴り上げてきた。顎に当たった。博昭はのけぞった。互いの体に距離ができる。風間がまた蹴ってくる。二発、三発。
互いの体に距離があるため、博昭は完全なマウントポジションが取れない。有効打のパンチが打てない。
風間の足が博昭の肩に乗った。風間は三角絞めを狙っている。かまわず殴る。
腕をつかまれた。博昭は風間の道着の襟首を持ち、腕力で風間の体ごと持ち上げた。
そのまま抱え上げ、プロレスのパワーボムのような形で道場の床に叩きつける。
風間の体が軽くバウンドした。と、同時に風間の足が首に巻きついてきた。
蛸のような動きだった。
足が絞まる。
博昭の左腕が捕られる。引き寄せられる。
風間の足がさらに絞まる。
息が苦しい。
あがく。苦しい。あがく……。
意識が遠のいた。
頬の痛みで目が覚めた。両腕が動かない。風間の両足が博昭の両腕の上に乗っている。
「約束や。依頼を引き受けてもらうで」
風間の声は氷のようだった。