『記憶の端』
もう四月も中旬なのに肌寒い日が続いていた。
僕は少し型のよれたモッズコートのフードを被り、蕾の膨らみかけた桜樹の下を歩く。去年この道には花びらが敷き詰められ、脇に追いやられたものは茶色く変色していた。それなのに今年はそれさえもなく殺風景で乾いた道が続いている。
僕は頭の中の靄をどうにもできない感覚で毎日を過ごしていた。それでも歩き続けようと必死にもがいていたのだ。
紗里に出会ったのは大学内ライブラリーの貸出カウンターだった。染色経験のない健康的な黒髪が印象的だった。手元を見ると絵本が何冊も積まれていて他の風景に視線がさまよったのち、まさかと思い再び凝視したのを覚えている。
僕は論文を仕上げるためにあたふたと時を過ごしていたから、いくら素晴らしいと評価される絵本であっても読んでみようかという意識さえなかった。
彼女は貸出を終えるとキャンバス地のカバンに絵本をしまい、くるっと向きを変えた。目が合い微笑みを向けられ、驚いているうちに彼女は行ってしまった。
黒髪、絵本、微笑み、紗里の第一印象の記憶。僕はいつでもその記憶を引き出せる。それほど強く鮮明に残るものだった。
この日を境に紗里のことは、キャンパス内でよく見かける様になった。いつもあのキャンバス地のカバンを肩から下げていた。よく見るとカバンには猫の絵がプリントされていた。それを見るたびに懐かしさが蘇る。
でもそれだけだ。それ以上はない。紗里のことはきっと今までも見かけていたし、隣り合わせにだって何回もなっていたはずだ。なのになぜ意識していない時は全部が風景に馴染み同化してしまうのだろう。
少し意識するだけで世界は変わってしまう。プラタナス横のベンチに腰かけ、僕はケースからイヤフォンを取り出し装着する。スマホをタップし、最近よく聞く曲で耳を満たした。そうしておかないとこの動揺をどうにもうまく取り扱うことができなかったのだ。
僕は告白された。