畑山は、満を持して、漫壱の予選に参加した。
ところが、うけない。頑張って声を張り上げれば張り上げるほど、声がむなしく響くだけであった。こんなときは、妙に客の顔が見えるだけに、余計にすべっているのが気になるのである。
そんな中で、客の中に、以前、自分が逮捕した万引き犯がいた。その男は畑山を見ながら、不思議そうな顔をしている。どこかで見たような気がする、と思っているのかもしれないが、まさか、自分を逮捕した警官とは思っていないのである。今日は、泥棒のネタを選択してしまったので、これを見て気がつくのではないかとひやひやしたが、それでもやっぱり気がつかない。
結局、捕まったときには、やましさでうつむいたまま目も合わせられないので、ろくに警官の顔など見ていないので分からないのだ。ただ、声には聞き覚えがあるようで、時々首をひねっている。
笑わないと逮捕するぞ、と言いたいが、そんなこと言えるはずもない。
ところが、その男は、何と、泥棒ネタの中の逮捕された男が謝っている場面で大笑いしているのである。畑山は、「うけた、うれしい」と思う反面、「何だこいつ、全く反省してないな」とも思い、腹も立つ。
複雑な気持ちで出番を終えた。
(二)天地紗津季
天地紗津季は看護師である。現在、社団法人権栄会橘病院に勤務している。
そこで今担当しているのは、消化器の病棟に入院しているがんの患者である。胃がんの初期ということであるが、摘出手術を受けて入院中である。
手術は成功したものの、高齢ということもあって術後の回復が思わしくなく、看護師にいろいろ不調を訴えるので、看護師仲間では、面倒な患者ということであまり評判がよくない。それでも紗津季は文句も言わずに一生懸命に職務に励んでいた。
紗津季が看護師の詰め所、ナースセンターにいるとナースコールが鳴った。そのがん患者の酒井である。