渉太郎は幼い頃から母親の影響を強く受けて育った。父親の風景が家庭になかった事情も影響した。
母の和子は、昭和初期生まれにしては珍しく女子大の英文科を出ていた。渉太郎の知る和子は洋画や外国文学に親しみ、日曜日には銀座の教会に通っていた。
渉太郎は揺籃期から小学校に入るまで祖母の家に住んでいた。和子はもともと身体が弱かった。
それにもかかわらず、日曜日が訪れる度に祖母の家で暮らしていた渉太郎を銀座まで連れ出してくれた。
教会に行くには国鉄の有楽町駅まで三十分ほど静かに揺られながら電車に運ばれていく。和子と隣り合わせで時折話すことができる時間は、渉太郎にとっての唯一の楽しみであった。母と二人きりになり、母を独り占めできるからである。
和子は清楚なワンピースにネックレスをして、耳にはイヤリングをしていた。そして手には帽子を携えていた。隣に座る渉太郎は白いワイシャツに紺の半ズボンを穿いて、革靴を履かされていた。
車内では必ずといってよいほど和子を目に留める乗客にでくわす。印象派の絵画から抜け出してきたような様子に、乗り合わせた乗客同士ひそひそと話をしながら、最後は和子のところで視線が留まっていた
。渉太郎はきれいな姿の母が好きであった。しかし、男性から母がジロジロ見られることには子ども心にも決してよい印象を持たなかった。
そんな母の影響で、ヘルマン・ヘッセ、パール・バックやシェークスピアなどの海外の文学をよく読むようになっていた。高校生の頃には、母の影響もあってか将来は海外で仕事に就きたいとさえ思うようになっていた。
和子の境遇を様変わりさせたことがあった。和子の夫彰一は、大学を出て公務員をしていた。
しばらくしてから、故郷の田畑を担保に銀行から融資を受けて事業を興した。当初はうまくいっていたが、事業を拡大したことがあだとなり資金繰りに窮するようになった。経営者としての違算により、結局多額の借金を残したまま、会社は倒産してしまった。