中庭のほぼ中心に、この庭の主人公とでもいうように、風格のあるどっしりとした欅の樹が根を張っていた。枝を広く四方に突き出している太い幹の中には、人間が二、三人入っているのではないかと思うほどであった。
いつも幾分は暗く湿った感じで、雨の日には青銅色の薄い鱗状の苔を伝って、薄い膜のような水が流れていた。夏ともなれば、どれほどの数の蝉がこの大木を棲み家にしているのかわからないほどだった。太く地中に張った根が黒土を持ち上げて、いささか小高くなっており、そのために欅の木蔭は、灰色の大蛇がのたくった、こんもりとした丘のように隆起していた。
奇妙なことに、睦子はいつのまにか、この太く男性的な欅の樹を、心の中で崇め始めていた。つらいことがある度に、彼女はその樹の灰色の肌を撫で、頬を当てて、
「もう悩まない。もう自分をいじめない」
と呪文のように繰り返した。そんなとき、欅の樹は、隣で眠っている男のような、静かな鼓動を伝えてきた。樹液が静かに上昇してゆくのが感じられた。心なしか柔らかいオーボエのような息遣いすら、感じられた。彼女はその樹にひそかに「イグドラシル」と名づけた。
その名前は、ある神話に基づいた北欧の美しい絵本から取った。イグドラシルは、世界樹とも訳されるらしい。宇宙を支える一本の木。その見事な樹こそが、生まれ変わった彼女の夢と理想の世界を、しっかりと支えていてくれるように思えたからである。
いまの世の中、自分のための宗教と神話を、自家製パスタのように作らなければならないのよ。味付けはそれぞれの好みにまかせればいいんだわ、と、彼女は逞しい樹木に頬ずりしながら、誰にともなく言い聞かせた。