『真理』
「ねえ、お湯沸いてる、レンのこと呼んでるよ」
翠がシーツに包まり分厚い洋書から顔も上げずに僕のことを呼んでいる。いつもそうだ。笛つきのやかんがけたたましく鳴り響いても翠は決して動こうとしない。
「だからさー、電気ケトル買おうよ」
翠がそうしないことをわかっていても、つい言ってしまう。
「ピーってなるのが聞きたいの、沸騰する時の水の叫びなんだよ」
よくわからないことをまるで正しいかのように、そんなことも知らないの? という感じで返してくるから僕はそれ以上何も言わない。僕は渋々立ち上がりコンロの火を消す。瓶からピラミッド型のティーバッグを取り出し翠のカップに入れてお湯を注ぐ。
翠はカップをすぐに割ってしまう。だから翠のカップはしょっちゅう変わる。今はなんの変哲もない白い陶磁器のカップだ。どこにでも売っているものだと思っていたから気がついた時には違和感を覚え、それで尋問ギリギリのことをしてしまった。洗い物をしている時にカップ裏の底に有名ブランドのロゴが印字してあるのを見つけたのだ。そういうものを翠は買わない。
「これどうしたの?」
「何が?」
「このカップ、翠買ったの?」
「あーそれ?」
興味なさそうにこちらをチラッと見る。
「もらった」
「えっ? 誰に?」
「……」
今度は洋書から目も離さない。
「これすげー高いんだよ」
「えっ? そのカップ高いの? 知らなかったー」
「割らないようにしないとね」
会話はそれで終わった。誰にもらったかなんて言わない、意図的にごまかしているのか、素なのかそれは僕にはわからない。
細くて長い綺麗な指がカップを包み込み、翠は美味しそうに僕の淹れた紅茶を飲む。華奢なフレームのメガネのレンズはたちまち曇ったが、そんなことは気にせず翠は洋書を読み続けていた。僕は気にしないふりをしてミルクたっぷりのコーヒーに口をつける。翠の紅茶の香りが色濃く漂ってきて、その香りは翠そのものの形をかたどってフワフワと浮いているようだった。
翠は軽やかに笑ってどんどん先へ行ってしまう。僕はいつだってそこに留まり、立ち尽くしてしまうのに。