北鎌倉円覚寺の祖父母が眠る墓の隣に政二の墓を建てたのは、そのときまだ二十六歳だった政二と先妻・さかゑの長男・和司である。費用は恵介が援助した。

この墓に何を捧げん
想い出か悲しみか慟哭か
すべてを無に帰して
静寂に眠る
この早春の墓標に

八郎が詠んだ詩である。

三男 敏三 ── 祖父母に寄り添った男

敏三は、長男・寛一郎、次男・政二の後に、父・周吉、母・たまの三男として、一九一〇(明治四十三)年に浜松市伝馬町で生まれた。子供の頃からよく風邪を引き体があまり丈夫ではなかったので、外で友達と遊ぶよりも、家の中で本や詩を読むのが好きな少年時代を過ごした。

小学校を出た敏三は、二人の兄たちと同じ中学(今の浜松商業高校)に進んだ。国木田独歩に心酔する文学青年だった敏三は、歴史を学びたいという気持ちがあったが、漠然としたものだったのであまり主張はしなかった。浜商を卒業しても特にやりたいことは見つからなかったので、寛一郎や政二を見習って家の仕事を手伝い始めた。

当時は、敏三の下に、正吉(恵介)、忠司、八郎の三人の弟がいて、まだ幼い作代と生まれてまもない芳子の二人の妹がいる大所帯だった。そこに長男・寛一郎が結婚したので、兄嫁のみきが加わり、住まいが手狭になった。

その頃の「尾張屋」は、浜松で初めてできたデパートなどいくつかに売店を持っていたが、両親は支店を作るための場所を探した。そして、駅からほど近い千歳町の繁華街に、もと旅館だった建物を買い取った。

四男・正吉が映画の道に進むことが決まると、たまはたびたび正吉と一緒に上京するようになった。家では、伝手を頼って手紙を書いたり、贈り物をしたりと、正吉のために一生懸命だった。

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