遠い夢の向こうのママ 毒親の虐待と夫のDVを越えて
一方、近所にひとりも友達がいなかった私は、家ではおばあちゃんに遊び相手をしてもらったり、お母さんの家事のお手伝いをしたり、毎日学校の図書館から本を借りてきて、それを読んだりしていた。
小さい時は料理上手なお母さんの台所の手伝いもちょくちょくしていた。夜、お父さんがゴルフの練習に行く時はよく連れていってくれたので、お父さんの練習を眺めたり、ボール運びを手伝ったりしていた。
そのゴルフの練習場から更に車で山を登ったところにお母さんの実家があり、たまに遊びに行っていた。お母さんは7~8人兄妹で、お盆やお正月にはみんなが実家に集まるのでとても賑やかだった。
でも私が2~3年生の頃、お母さん方のおじいちゃんが亡くなってしまい、お母さんの実家はおばあちゃんひとりになってしまっていた。お母さんは親子、兄弟共にとても仲良くしている様子だった。
お父さんは休みの日、たまに遠方にドライブに連れていってくれたり、旅行に連れていってくれていた。色んなところに連れていってもらった覚えがあり、それなりに楽しく、いい思い出だった。
でも家ではとても厳しく、毎日勉強時間を決められて、勉強させられていた。でも勉強嫌いで退屈でたまらず、私はちっとも勉強しなかったので、相変わらず学校の成績は良くなかった。勉強以外では、私は本が好きな以外に、手先が器用だったので、お母さんから編み物やちょっとしたお裁縫を習ったりして小さなものを作って「器用な子ね!」と周りの人達から褒められたりしていた。
そして、物心ついた頃からずっと私にはお父さん、お母さんとは別で「パパとママ」がいた。普通、お父さん=パパ、お母さん=ママと常識で頭ではわかっているけども、物心ついた頃からお父さんやお母さんとは別で大阪のパパとママがいたので、常識と自分を自然と分けて考えていた。ママは親戚だけど、なぜか「ママ」と呼んでいる、という認識でしかなかった。
ママとパパ(ママのパートナー)は大阪に住んでいた。たまにママから電話がかかると、お母さんが「(大阪の)ママから電話よ」と取り次いでくれ、楽しくおしゃべりしていた。普通ではお母さんが「ママから電話よ」だなんて、まぁそんな変なやり取りはないと思う。
ママは大阪に住んでいる親戚のおばさんだけど、子供がいないから寂しくて私にママと呼ばせているのかな? と、大きくなるにつれ、なんとなく思っていた。たまにしゃべる大阪のママはとっても優しく、楽しい人だった。そして学校の長い休みの間は大阪でずっと過ごすことも多かった。
ママはいつも男の人と一緒にいて、会う度に違う人に変わったりしていたけど、ママが連れている男の人をパパと呼ぶものだと子供心にわかっていて、そうしていた。たまに会った時のママは電話の時と同じでとても優しく楽しく、私がその時に欲しい物を全て買ってくれていた。長崎にいる時もたまにママから洋服などが送られてきたりしていて、毛皮とブーツが好きだったママは私に子供用の毛皮やブーツを送ってきてくれて、ママとお揃いみたいにして喜んで着ていたのを覚えている。
でも私は、自我が強かったのか、人と同じことをするのが大嫌いで、洋服の選り好みも激しく、例えばみんなが履いているジーンズなんか絶対に履きたくなかった。そういった点では気難しい子だったのかもしれない。