遠い夢の向こうのママ 毒親の虐待と夫のDVを越えて

そして喧嘩をした時、お母さんは必ず私がお母さんに対して言った悪態を

「今言ったその言葉、一生忘れるなよ」

と私に言っていた。意味はさっぱりわからなかったが、毎日毎回言われていた。それが喧嘩の時の習慣だった。意味がわからなかったので、いつもスルーしていた。そしてだんだんと毎日の喧嘩が本当に嫌でたまらず、「家=喧嘩をするところ」というイメージになっていった。

おばあちゃんっ子だった私は、おばあちゃんとはとても仲が良かったので、おばあちゃんと過ごすのはとても好きだった。おばあちゃんと遊ぶのはとても楽しく、平和で、穏やかな時間だった。

でも、お母さんとはなにをどうしても毎日喧嘩になり、私はその頃から夜、悪夢を見てうなされるようになっていた。とてもとても怖い夢を見て目覚める、真っ暗な夜中。明けることのない夜。怖くてたまらないその暗闇の時間が永遠に思えた。朝が待ち遠しかったが、明け方なんてすぐには来なかった。私は夜が大嫌いになった。

喧嘩が増えてくるにつれ、お母さんが

「自分のことくらい自分でしなさいよ!」

と、学校に着ていく制服と毎日持つハンカチのアイロンがけを自分でさせられるようになった。今思うとそんな小さな頃からアイロン使わせるなんてと驚くが、その頃から私は学校に着ていくブラウス、スカート、ハンカチのアイロンを毎日かけていた。おそらく、一般的にそんな歳から毎日アイロンなんかする子供は少ないのではないかと思う。

そして自分の布団も自分で敷くように言われ、背の低い私は必死で押し入れから自分の布団を毎日引きずり出し、お布団を綺麗に敷いて寝ていた。

その頃からは学校で遊んで帰ってくるので、夕ごはんができる頃に帰宅することになり、家事のお手伝いをすることも減っていった。そして年齢が上がると共にお母さんとの喧嘩はひどくなる一方だった。私はだんだん家にいるのが憂鬱に感じるようになっていった。

でも、他の家を知らない私は、それが普通なんだと思っていた。私にとって、家は暗くて重くて憂鬱な場所となっていた。それでも私はのんびりした子だったのだ。

こんなことがあった。小学3年生の時、運動会の練習をしている時、私は運動場で転び、膝にパックリとした切り傷を作ってしまった。深さ5ミリ、横幅4センチくらいだったので、本来であれば縫うような傷だが、家が近所で仲良しの同級生のお家が整形外科をしていたので、そこで治療をしてもらうことになった。

その友達の病院は飲み屋街を抜けたところにあり、その病院に通う間は毎日その友達と一緒に帰っていた。その帰り道、私達は色んなところで道草をくっていた。一番よく行っていたのが氷屋さんだった。大きな氷の塊を、大きな彫刻刀で美しい動物を掘ったり、お造りを盛りつける綺麗な器を作ったり、本当にキラキラ綺麗で、毎日通って、お店の人からも可愛がってもらっていた。

後は帰り道にあるペットショップに寄って動物を眺めたりもしていた。ある時は友達と一緒にいる時に知らないおじさんから