一大事が起こった当時のことを小学4年になった長男は、お母さんはずっとぼーっとしていた、目の焦点合ってなかったと客観的に話してくれる。そんな長男は私以上に精神的に強く覚悟を決めて受け入れる器があったように見えてあのときは情けないが支えられていた。

当時の私はしばらく真実と向き合おうとするも、ぽっかり穴があいた状態だった。それでも、入院先から、大人のオムツ持ってきてください、タオル持ってきてください、同意書にサインお願いしますなど連絡がきて、目まぐるしかった。病院から渡された夫が最後に着ていた服すらまだ洗えていない。最後に履いていた靴も財布も携帯も……何もかもビニール袋から出せていないのに現実は容赦ない。

この1週間後くらいに自由研究をしていたメダカが全滅していたのをようやく目にする。長男は落胆しながら仕方ないと言っただろうか……。

現実と無我夢中

目まぐるしい状況でも、三人の子どもがいてまだ8歳、6歳、1歳。我が子のためにどうするよ私、と。あの時の私は神にすがる思いで、神への怒りも抱えて「なんでなんよ」と答えを求めた時期でもあった。みんなそうかはわからない。

私の場合、オムツ姿の夫を見て、医療の現場に帰れなかった。オムツを見たら、きっと泣いてしまう、公私混同してしまうと感じた。35歳のさっきまで歩いていた人がいきなりオムツになる事実を、受け止めきれず、辛かったのを覚えている。

もっと語るとしたら看護師も同世代。私と同業者であり、友人なり先輩なりがいる病院。双方の立場上、いろいろと見方、考えがあっただろう。なにせ全身管理だから尿道カテーテルも点滴も、人工呼吸器も、経管栄養も……諸々管理されるのだから仕方ない。すべてをさらけ出して、裸で歩けと言われてるようで、まだ若い夫の入院、全身管理には抵抗もあった。

それよりも日々が目まぐるしく、夫が急性期ともなれば、生気のない目をして髪を整えもせず、化粧もせず、夫も私も一日一日が、懸命だっただろう。

容赦なく夫は痩せこけ、1ヵ月もしないうちに36年活動を支えていた筋肉がみるみる落ちていき、面影もなくなる。記憶の中の、そして写真の中の夫が消えていくようで面会を終えて階段を下りながら涙を必死に堪えて車に乗り込み泣いた。

私の中の思い出すらもすべてすり替えられたかのように痩せこけて四〜五人がかりで寝返りを介助されてる夫を目の当たりにしても医療行為ひとつさせてもらえるわけでない傍観者。妻として近くにいても家族であり職員ではない……すぐそこでアラーム音が鳴っていても看護師であってもただひたすら治療のなされている姿の彼の見学しかできない……やるせない時間が切なかった。