第三章 ぽんこつ放浪記
1.母の呪文:母と娘のキツイ関係
母の呪文
私は、幼い頃から母に「人のためになる人になりなさい」と毎日言われて育った。
自分でも「人の役に立つ仕事に就く」と念仏のように唱えてきた。母は、離島の医師の父親と、にしん漁で栄えた網元の娘の母親の間に次女として生まれ、六歳までお嬢様で育った。三歳で母親が結核で死亡、父親も後を追うように亡くなった。
当時、結核は今のコロナと同じよう大流行し、亡国病と言われた。母はその後、親戚をたらいまわしにされ、身分はお嬢様なのに本家では厄介者扱いの「おしん」の生活だった。そんな幼少期を過ごした母は、その半生の苦労と共に、「お前の祖父は離島の立派な診療医だったのよ」と、そして、「私はお前を命がけで産んだ」ことを耳にタコができそうなほど話した。
母が私を出産する時、難産で出血多量、産後は不治の腎臓病にかかったと聞かされた。命と引き換えに……、お母さん、ありがとう。感謝の気持ちしかなかったから、中学校まで私の尊敬する人は、聖徳太子でも福沢諭吉でもナイチンゲールでもなく「お母さん」だった。
しかし、母は、同時に「お前さえ生まれてこなければ私の人生は幸せだったのに」と呪いの言葉も言った。私は母を幸せにするため、母の期待に応えて何でもしようと思った。
母の望み通り、小さい頃からピアノ、お習字やお茶というお稽古事をした。母は、自分が叶えられなかった少女期の夢を、娘の私を通して夢見たのだろう。
しかし、ある時、看護学の課題で、自分の母子手帳を見るよう言われ、初めて自分の母子手帳を見た。出産の記録欄には「正常分娩、出血少量」と記載されていた。
「ん? 私は難産で出血多量で命と引き換えに産まれたのではなかったっけ?」と母に聞くと、「うん、そうだよ」と母は答えた。
「でも正常分娩、出血少量って書いているよ」と言うと、母は、「あらそうなの、だって死ぬかと思うほどつらかったから難産だと思ったし、あんなに出血したし、産後に血圧が上がって中毒症って言われたから」と。
事実はこういうことだったのか。
陣痛が死ぬほどつらく、生理で見たことのない量の出血、産後に妊娠高血圧症状が出たことで治らない病気になったと思ったのだ。
医師はきっと普通に説明したと思うが、本人の思い込みはすごい。
「私は出産で病気して腎臓を悪くしたから長くは生きられない」といつも言うので、母はいつ病気で死ぬか不安だった。しかし、八十六歳の母は今も健在だ。そんな病のはずだったが、その二年後に健康な男児(弟)を出産し、内臓の病気には一度もかかったことはない。