一軒一軒配り歩いていると、ポストは家とは別の人格を持ったもう一つの小さな家だなと月子は思う。「自分はここにいる」と、ポストは主張しているのだ。

素材、大きさ、形状、設置されている場所、高さ、一つとして同じポストはない。外壁に埋め込まれたビルトインポスト、一個の建造物として堅牢に作られた独立型のポスト。エクステリアメーカーの広告写真に登場しそうなスタイリッシュなポストは、初めて遭遇した時、投函口が見当たらなくて当惑した。その物体を矯めつ眇めつして、謎が解けるまで数分を要した。

木工作品をそのまま実用に格上げされたと思われるポストはいかにも郵便箱といった堂々の風情で、風雨にさらされていい感じにエイジングされている。創作意欲は感じられるけれど、ただ、広告紙を入れる度に老人の喉のようにつかえてしまうので、毎回小さく折りたたんで入れ直さなくてはならない。

どんなポストも味方につけて歩かなければならない。月子にとってポストは相棒である。

担当エリアの地形と道順は頭に入っている。始めた頃は、住宅街をぐるぐる回って気がつけば同じ家のポストに投函していた。それで、効率のいい回り方を試行錯誤し、今のルートに落ち着いた。

あらかじめ美しい公園やポケットパークと呼ばれる遊歩道、緑地が計画されたランドスケープは、去勢された美しさを誇っている。猥雑で混沌とした路地も場末の映画館とも無縁の暮らしだ。

どの家も生活臭を漂わせてはいない。無機質な構造物の羅列。それでも、家は物言わず黙ってその土地を護っている。時に、天災や人災で破壊され、ぐちゃぐちゃになったりもするが、家主が死んでも家は残る。家は、その人の暮らしが消滅しても、暮らしを記憶し家主を(かたど)る棺でもある。

平日午前十時の住宅街の道は、飼い猫が塀の上で退屈そうにしているだけで人影がない。職場へ、学校へ、デイサービスへ、パートへ、それぞれの持ち場へと出かけたあとの家々からため息が聞こえてくるようだ。主人の不在にやれやれとでも呟くように。

一軒の和風住宅の薄抹茶色の壁に薄日が白いスクリーンを作っている。月子の耳に、聞き馴染みのあるメロディが聞こえてきた。タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ。記憶の中の音楽室がこんなところで追憶された。漏れ聞こえてきたのはドボルザークの「ユモレスク」だった。