父の仕事と東京のおみやげ

父の仕事は山から「マンガン」と言う鉱石を堀り出し「カマス」と言うワラで編んだ四角い袋に詰めます。それを烏山駅から貨車で東京に送るのです。戦後鉄鋼業が発展し、当時マンガン鉱石の需要は増え続けたようです。仕事はどんどん軌道に乗り、凄い勢いで家の中や生活が変わっていきました。

マンガン鉱石の運搬用にオート三輪車を購入しました。家の玄関口の部屋を取り壊し、土間を広げて車庫に変身です。そして雇っていた運転手さんは、我が家の二階に夫婦で同居していました。父は毎朝そのオート三輪車に乗り、町から少し離れた鉱山に出かけて行きます。

出かける前に、母が七輪にかけたベビーパンで沸かした牛乳を、美味しそうに飲むのが日課でした。牛乳は毎日一本配達されます。それは父の分の牛乳なので、子どもの口には入りませんが唯一妹は、父の膝の上でねだっていました。山にいた頃の生活で経験したことのない、何とも言えない牛乳の良い香りでした。その香りで幸せな気分が、毎朝家の中に漂いました。

父は時々東京にマンガン鉱の代金を受け取りに出向きます。その時にはとても嬉しいおみやげがありました。「浅草海苔」「中村屋のかりん糖」「バナナ」などです。朝食時に火鉢で海苔を焙ると、家中に良い香りが漂います。海苔を見るのも食べるのも初めてです。子ども達はそれぞれ、半分にした海苔を貰うのが楽しみでした。

父は、

「浅草海苔はな、東京の名物なんだよ」

と言って満足そうでした。父の食事の躾は厳しく、

「正座の足を崩してはいけない」

「黙って静かに頂きなさい」

「お箸は右手に正しく持って食べなさい」

と言いながら、私達子どもの食事をにこにこしながら眺めていました。

バナナも嬉しい東京のおみやげです。田舎町では昭和二十七年の頃、果物屋の店先にはプラスチックのバナナが吊り下げてありました。本物は見たことが無かったのです。初めて見た時は正に目が点になり、夢を見ているようでした。ケーキなど無かったあの頃、バナナの香りと食感は格別なものがあり、田舎町では最高のぜいたくでした。

「バナナの皮は滑る」と本で知っていたので道路で試してみましたが何回試しても上手く滑りませんでした。今考えると、砂利道では滑るのはとても無理なことでした。

「台湾バナナは最高だね」

と言う父の言葉で、私には今も

「バナナは台湾バナナが一番」

が頭にインプットされているのです。