【前回の記事を読む】三十キロも離れた空が、夕焼けよりも真っ赤に燃えて見えた…宇都宮大空襲の惨状
第1章 記憶の始まり
第二章 ぜいたく三昧な小学生の頃
私の小学時代は恵まれた家庭環境の中、
自分の思いのままに自由奔放な毎日でした。
それは私の持つ生きる力と言うより、
守られたバリアの中で行動できる
束縛のない安心感の成せることでした。
この穏やかな生活が、
よもや嵐の前の静けさであったとは
微塵も感じていなかったのです。
しかし、このぜいたくな生活の中で
気づかぬうちに自尊心が育まれ
苦境の中で立ち続ける力を得ていたのかも知れません。
夢の町への引っ越し
昭和二十六年、私が小学校入学の年に烏山町に引っ越しました。烏山町は母に連れられ一日がかりで映画を見にきた町でした。映画に行く時は、兄達の友達やその親など、大人と子どもを合わせて十数人でワイワイ騒ぎながら遠足さながらの賑わいでした。その映画館のある町に越して来たのです。
子どもにとって烏山町は、見る物聞く物全てが珍しい物ばかりでした。店も多く賑やかな夢のような町でした。私の家は町の中の大きな二階建ての家でした。玄関を出ると隣から隣に家が連なっています。山も川も畑もありません。家の前が歯医者で、斜め向かい側に床屋があります。建具屋さんや畳屋もあり、とても賑やかな所でした。
家には電気が引いてありました。これまでの薄暗いランプの明かりとは、比べ物になりません。夜になって電灯を点けると、昼のような眩しさです。その電灯を消す時に、ランプを消すこれまでの習慣がなかなか抜けず「フー、フー」と吹いてしまうので、何度も皆で大笑いしました。
当時、水道設備はまだ充分ではなく、家の横につるべ井戸がありました。隣近所六軒位の家が共同で使う井戸でした。太い紐の勢いで桶を強く落とし入れ水を入れます。それが楽しくて、私は水汲みが好きでした。時々消毒液を入れるので、匂いが何日もとてもきつかったのを覚えています。やはり水は、山の沢からの水が一番でした。
次兄は山に住んでいた頃と違って、近所にたくさんの友達が出来ました。学校から帰るといつも、草野球に出かけます。そんな時母から、
「妹のおもり頼むね」
と言われ、まだ赤ん坊の妹を背におんぶしての野球です。
夕方陽が落ちる頃私は、
「ご飯だよー……ご飯だよー」
と大きな声で、あちこちと走り回ります。すると兄達は、夕焼けに染まった路地でベーゴマやメンコに夢中になっていました。
時々「チンドン屋さん」がやってきました。相撲やサーカスの興行がある時です。のぼりを立て「美しき天然」の音楽を奏でながら踊り足で町の中を練り歩きます。子ども達はその行列の後をついて歩くのが楽しみでした。
「たーらラララらーらら」のメロディーが今も耳の奥から懐かしく流れてきます。