「これ以上、いなくなったら嫌なの。お父さんも赤ちゃんも、いなくなったから」

郁子はその瞳にはっきりと春彦を捉えると、震える声で躊躇いがちに言った。

「春彦さんだけは、ずっと一緒でしょう?」

春彦は目をつぶり、郁子を先ほどよりも少しだけ強く抱きしめた。触れることができずにいた間、痩せてしまったその身体が悲しかった。このままずっと二人でいられるのなら、どんなにいいことだろうか。しかし、それがそのまま、郁子にとっての幸せであろうはずもなかった。

「春彦さんは、私だけのものなの。ずっとずっと私だけのものなの。なんで?」

そこには一人の女性として春彦を求める思いが、その表情にも言葉にも強く込められていた。春彦は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、郁子の両頬に触れた。そして確かめるように、自らの震える唇をそっとその唇に重ねた。かすかに応えてくる郁子が、もう思い残すことなどないほどに春彦には嬉しかった。

「郁ちゃん……。戻ってきてくれてありがとう」

再び交わりあう視線に応えるように、郁子が口を開きかけたその瞬間だった。郁子の腕から崩れ落ちるように倒れ込んだ春彦は、痙攣しながらその瞳を閉じた。一体何が起きているのだろうか。理解せずとも漏れ出る郁子の悲鳴にまるで応えるように、何者かが激しく玄関ドアを叩いた。

「小山内さん、大丈夫ですか? ドアを開けてください」

外から知らない男に大きな声で呼びかけられて、郁子は混乱している自分を何とか鎮めようとした。たくし上げたネグリジェの裾が、赤く染め上げられずっしりと重くなっていた。事態の深刻さに慄く郁子は、再び絞り出すように悲鳴を上げた。すると外にいる男が更に激しくドアを叩いた。このドアを開ければいいのだと、それは郁子にも十分に分かっていた。それを全身に刺さるように伝わって来る男の何かに阻まれて、僅かにでも伸ばした手が何故か届かなかった。

自分は何故いつもこうなのだろうか。祈るような気持ちで何とか手を伸ばそうとする郁子の心の中に、父邦夫が今際の際に遺した言葉がふと蘇った。

「怖くても、決して、人を信じることをやめてはいけないよ」

まるで今、耳元でささやかれたかのようなその言葉にこれまでの恐怖が、スッと抜けるようだった。郁子は気が付くと背中を押されるようにして、玄関ドアへと歩を進めていた。そして内鍵を開けると、全体重をかけてドアノブを押した。開いた扉の向こうには、一人の警察官が立っていた。その警察官の肩越しに、間もなく沈もうとしている太陽が大きく赤く燃えていた。滲みながら伝わる赤い光に照らし出された玄関内の惨状が、その警察官の顔を歪ませた。郁子は、震える声で言った。

「夫が、大きな怪我をしました。今すぐ救急車を呼んでください」

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