第一章 決心
そんな思いが春彦の脳裏に揺れる眼前で、現実を突き付けるかのような郁子のその鬼の形相は、少しも崩れることはなかった。
それどころか、それがその形相にも、その身にすらも納まりきらない感情だと言わんばかりに、全身をブルブルと震わせながら立っていた。四十度近い熱で寝込んでいた郁子のただならぬ様子に、春彦は不吉な想像を禁じえなかった。
せめて水分だけでもとってもらいたかった。その矢先のこの出来事に焦るばかりの春彦に、一向に脱げない革靴が追い打ちをかけた。恐らく三半規管を揺すられたのだろう。振向きざまのその顎に抱き枕の二打目を食らった春彦は、玄関に受け身すら取れない状態で見事に倒れ込んだ。
その時春彦は、左腿に形容しがたい衝撃を感じていた。二度、三度ともんどりを打たされる中、奇妙なうめき声が口から漏れ出ることが、何処か他人事のようだった。
咄嗟に探った手には、生温かい液体が絡みつくように伝った。そこに刺さっていたのは、意外なものだった。それは新築祝いに後輩がくれた靴ベラのスタンドで、折れもせずこうも見事に人体に刺さったことに、春彦は悪態をつくばかりだった。
白いタイルにぼとぼとと滴り落ち、張力を保ちながら大きくなる血溜まりは、すぐに結構な大きさになった。見たこともないような出血量に、春彦は心臓の奥で何かが慄くのを感じていた。ところがどうしてこうも現実感がないのだろうか。
いつの間にかドアフォンが鳴らされ、何者かがドアノブをガチャガチャといわせていた。恐らく郁子の絶叫を聞き付けた誰かが、来たのだろう。
「郁ちゃん、どうしたの? 隣の沢渡よ」
今度はドアを直接叩きながら、声の主が玄関の外で大声を張り上げていた。
そのことで春彦は、先ほどの郁子の様子を思い出していた。そこにいるのはこの二年どころか、出会ってこの方、春彦が見たことも感じたこともないような郁子だった。
『お願いだ! 邪魔しないでくれ』
そう思いながらドアフォンの主を無視して、春彦は郁子の様子を窺った。
春彦の脳内では郁子との玄関でのやり取りが、何度も反芻され分析されていた。それでも消化しきれない何かは、まるでワインのボトルの底にたまる澱のように微細で、とても認識しようのないものに思えた。それを感じ取れるほどに感覚の研ぎ澄まされた春彦には、その正体が何なのか解っているようだった。