プロローグ
事件のあった日の朝、いつものように翼君の家のチャイムを鳴らしたのに、反応がなかった。翼君のお母さんは仕事に出ていて、家には翼君しかいないはずだった。もう一回押してみてしばらく待っても、やはり翼君は出てこない。学校に遅刻するので、諦めて通学路を走った。なんで先に行っちゃったのかと怒りを地面に叩きつけるように走った。
結局、遅れて入った学校にも翼君はいなかった。先生が翼君はお休みだよと笑いかけてくれた。お休みなら、なんで呼び鈴に反応がなかったのだろう。答えてくれれば結局遅刻せずに済んだのに。それとも、呼び鈴に答えられないほど体調を崩しているのだろうか。
一人家で倒れている姿が頭をよぎった。想像してしまったら、いてもたってもいられなくなって放課後に再び翼君の家を訪ねた。もし元気だったら文句の一つでもついでに言ってやろうと、朝と同じように呼び鈴に手を伸ばしてボタンを押した。やはり反応がない。チャイムの機械的な音はドアの向こうで鳴っているのが聞こえているので、壊れているわけではない。
もう一度鳴らして、ノックして声を掛けても誰も出なかった。仕方がないので草の茂る庭の方に足を向けた。先ほどの妄想が再び頭の中に浮かんで、家の中を確かめようと草をかき分けながら家をぐるりと回る。私の身長で見える窓には全てカーテンが引かれていて、中の様子は伺えない。何とか見つけたカーテンの隙間に顔を押し付けてみるも、角度的に見えるものはなかった。
誰もいないのかなと引き返そうとした途端、ふと二階の窓に目が留まった。人影が見えた気がしたのだ。確認するように目を凝らした。窓の人影はすでに見えなくなっていたけれど、もしかしたら翼君だったのではないかと期待して背伸びをした。もう一度玄関に回りこんで、呼び鈴を鳴らし、おまけにノックまでしてみた。
翼君が重たい玄関のドアを両手で押しながら出てくるのをウキウキしながら待っているとドアが開かれた。けれどいつもは翼君の顔がある位置に足があった。驚きながら視線を上げると、以前に何度か見たことがあった翼君のお母さんが見下ろしている。その瞬間に体が硬直した。あのお葬式のことを思い出してしまい、引き返したくなるのを自分で励まして耐えた。
お母さんは光のない目を向けていた。その目に私が入っているはずなのに、洞穴みたいな目玉は微動だにしない。心ここにあらずで怒鳴られるよりよっぽど怖かった。けれど引き返すわけにはいかない。翼君に会いに来たのだから。私は上背のあるお母さんを見上げ足を踏ん張った。
「あの、翼君のお母さん、こんにちは」
まずは挨拶と思ったのに、お母さんはギュッと堪えるように目を閉じた。私の声をうるさがっているように見えて下を向いた。
「こんにちは」
答えてくれたお母さんの目にはやるせなさが透けて見えて、それが私にも伝染したようにジワリといたたまれなくなった。けれど目をそらしたくなるのをこらえてしっかりと向き合う。
「翼君っていますか」
お母さんは大きなため息をついた。
「おらんよ」
「いまどこにいるんですか」
「今日風邪ひいたけえ、あの子の親戚に預けたん」
「いつ頃、帰ってきますか」
「もう少ししたら、迎えに行こうと思っとったんよ」
話すのが面倒くさいと言わんばかりの態度だった。
「そうなんですね。じゃあ今日は会えないんですね」
私はスカートの裾を握りながら聞いた。そうでもしていないと泣き出しそうだった。するとお母さんは困ったように眉を寄せて目を細めた。さっきより大きなため息をついて面倒臭そうに肩を回した。
「分かった。会わしちゃるけ、しばらくこの中で待っちょって」
お母さんは玄関を通した。家の勝手は知っている。玄関入ってすぐ正面に階段が直線に伸びている。右手にリビングの扉があって、さらに奥にもう一部屋ある。そこに私を押し入れると、待っていなさいとリビングと部屋を繋ぐ扉を閉めた。ここは翼君の部屋だ。翼君のランドセルが勉強机に載っていた。
部屋の隅にベッドがあって、最初は翼君の勉強机に着いたり、部屋のおもちゃを触ってみたり、しばらく待っていたけれど、待ち飽きて、疲れてしまったのか私は眠りについた。