中部文化芸術大学は比較的新しい大学である。女子短大からスタートし、いろいろな過程を経て五年前に四年制文系大学になった。規模は小さいが特色ある教育機関としての地位を得ている。幼稚園および小中高の付属校を有し、一貫教育を行っている。
悠子は付属高校一、二年生の日本史を担当しつつ、教授の補佐および自分の研究を行う毎日となった。
それから一年も経たないうちに大学に籍をおいたまま出向という形で岐阜市歴史博物館臨時職員となった。高校教員の仕事を継続しつつという変則な毎日であった。実際には、高校の授業は一日に集約したので、博物館には週五日勤務となる。
岐阜市歴史博物館は金華山麓岐阜公園内にある。常設展、企画展など岐阜の歴史文化資料を収集し公開している。中川館長以下六名の学芸員および三名の事務職員で運営していた。文化財の収集整理などは意外と手間がかかる。そして年二回の企画展も準備が大変で職員は忙しい毎日であった。
そんな状態のなか、中川館長は市長に呼び出された。石田市長は中川館長に話を始めた。
「岐阜市の発展のために観光事業を促進せねばならない。これまで目玉であった長良川の鵜飼いもあちらこちらで行われるようになり、独自性が薄れた。観光客も減少傾向にある。これはまずいことだ。そこで新しい目玉となる観光開発が迫られている。昨今は歴史文化に人気が集まっている。メディアによく登場する信長はこの岐阜の地、金華山に天守を構え居館を造り住んでいた。城下町に楽市楽座を開き、天下布武を唱えた地でもある。このことを強くアピールしたい」
中川館長は市長の真意が分からないでいた。市長は少し声をはずませて言った。
「信長公の居館再生を視野に入れている。それに向けて信長に関する基礎調査を始めてください。信長の新しい人物像、魅力の再発見を探っていただきたい。一年をめどに進めてください」という話であった。
中川館長にしては晴天霹靂であった。教育委員会文化財課の仕事ではと言うと市長は答えた。
「信長公居館遺跡は博物館のある公園内に面している。何かと都合がいいと思う」
中川博物館長はさらに食い下がった。
「どこかの大学に依頼されては」
市長はすげなく言った。
「予算でまた議会と折衝しなければならない。いずれの大学か選定するのに手間がかかり無駄な時間をかける。とりあえずの基礎調査だ。いい方法を考えてくれ」
さすがの中川館長も市長にはさからえないでいた。
二晩考えて、懇意にしている中部文化芸術大学の山倉教授に相談することにした。二人は岐阜市歴史文化懇話会で一緒している。たまに酒も酌み交わしている。今回も柳ケ瀬にある割烹山野で会うことにした。