第一部 銀の画鋲
「作曲家の卵」
「『ワルシャワの憂鬱な空の下』っていう本はありますか」
また、変な奴が入って来たぞ。
「いや、『憂鬱な空の下』だったでしょうか」
ワルツさんはそんな時決まって、僕をじろりとにらみ指示する。
その本のとこまで案内しろって言っているんだ。
『ワルシャワの憂鬱な空の下』なんて本はここにはない。
僕はワルツさんに向かってしっぽをくるりと回す。
これは本がない時の僕のサイン。
「悪いが、そんな本はここにはないよ」
まるで自分の手柄のようにワルツさんは偉そうだ。
僕がいないと、どこにどの本があるかわからないくせに。
「申し訳ありませんが、僕はピョートルといいます」
帽子を脱いだ若者は、美しい顔をしている。
大人なのにガラスでできた子供みたいだ。
瞳は悲しみのせいで荒涼とした冬の海みたいだ。
「僕は音楽の教師をしています。教師をしながら作曲もしています。ですが、そのことが苦しくて仕方ないのです。もちろん創作の霊感を感じる時もあるのですが、自分の内部がそのことを裏切ってしまうのです。音符を書こうとすると、その音符が僕から飛び去ってしまう。その幻想に囚われて、悲しくて仕方がないのです。
尖ったものが僕の身体と心を茨の茎になって締めつけてくる。いっそのこと死んでしまおうと決心して崖っぷちに立った時に、一羽の小さなカモメが僕の肩に止まってこの本屋のことを教えてくれたんです。そこに行って『ワルシャワの憂鬱な空の下』って本を手に入れろ、って」
ワルツさんがじろりと僕を見て、指で机を二度叩く。僕への特別なサインだ。
僕はゆっくりとその若者の前をすり抜け、一番奥の梯子の下まで行った。
「あの黒猫がいるところに行ってみなされ。ひょっとしたら見つかるかもしれん」
若者は見つけた。梯子を一段登ったところに本は確かにあった。背表紙に細い黒い字で『ワルシャワの憂鬱』とあった。表表紙は一面の青だった。
『ワルシャワの憂鬱』を開く若者の目が輝いた。二ページ目を開くと一層輝きが増した。それから若者はワルツさんに何度も何度もお礼を言って本屋を出ていった。
もちろん、本を持って。
僕は知っている。
あの本には何も書かれていないって。
でも若者は読むことができた。
自分への物語を読むことができた。
若者が持っていたカバンに貼り付けられていた住所はワルシャワで、名前はピョートル・チャイカ。
ピョートルは悲しみの美しさを知っている。
あの本を開いて自らのそれを知ったんだ。
これは僕の推測なんだけどね。
ピョートルにはまだまだやらなくちゃいけないことがあるってことだ。
人を愛するとか、美しいシンフォニーを創るとか。
まあ、僕にはどうでもいいことだけど。