科学研究費とは、研究者として国がその研究を認め、研究費を国が支払うもので、厳正な審査があり、簡単に得られるものではない。私は国に認められる研究者として大学に貢献したはずだった。大学はそんな教員を本来なら簡単にやめさせてはいけない。しかし、職場は、同調圧力集団の力の方が強かった。

私の復職を産業医と新しく代わったばかりの学長が認めなかった。私の授業は休講にされた。退職するなら休講にせず非常勤講師をあてがうことができるのだが、と言われた。退職するなどとは言っていないうちから、私の授業の代替非常勤講師はすでに決まっていた。これ以上、休講にはできない。学生に不利益を及ぼすことはできない。退職するしかなかった。

午後五時過ぎに提出した退職願が即日受理された。ひどい。精神的に参って寝込んだ。何も手につかなかった。先のことは何も考えらえなかった。しかも、この後、金の生る木だったはずのこの新学科は学生が集まらず赤字財政、三年で閉じることになったことが私の退職後に決まった。国民の税金を、大金を投じて使って作ったはずの新学科。設立から数年で消失など、コロナ禍でなければ、大きく報道されていたはず。コロナは、このような大学の闇をも圧倒したのだ。

失意のどん底にいた私を支えていたのは、子どもたちの笑顔だった。母子三人の家族、思春期の子どもたちだから色々あるが、お互いに腹を立てて喧嘩しても、たいていは「ごめんなさい」でおしまいだ。夕食時は「今日は〇〇に乾杯~」と何かしらに乾杯し、お笑いのテレビを観ては大笑い、とにかく笑いあって過ごせていた。子どもの笑顔の力は本当に不思議だ。そして、家の中にイライラして怒る大人がいないのは、こんなに安心できることなのだと改めて思った。

離婚の前後は、絶望の淵に立たされ、次男と何度も一緒に死のうと思いつめていたのに。「死にたい、死にたい」と、暴れ泣きわめく次男を長男でも制止できず、警察の方の介入でやっと落ち着いたこともあった。退職したところで、子どもを失ったわけではないし、ま、子どもたちと居られるからいいかなと思うことにした。離婚してから何度転職しただろう。どこに行ってもハラスメント、数年でこんな繰り返し。私はすっかり疲れていた。