「知ってます?ドッペルゲンガー」
唐突に何を言い出すのだろう。
「ドイツ語で、自分そっくりの分身、という意味だそうです」
「だから何?」
なんだかイライラしてきた。
「知ってます? ドッペルゲンガーにまつわる伝説」
「知らないから早く教えて」
わたしは突き放すような口調で言った。千春のもったいぶった話し方にますますイライラが募る。
「世の中には自分と瓜二つの人間が三人いて、その人間と会ったら死んでしまうそうですよ」
「はい?」
わたしは一瞬、身体が固まると、苛立っていたのが嘘のように思わず噴き出した。
「じゃあ逆に聞くけど、見ての通り、お互いぴんぴんしているのはどういうことかしら」
「まだ一人めだからです」
「どういう意味?」
「二人めまでは大丈夫で、三人めに会うと死ぬんだそうです」
「へえー」
ばかばかしい。わたしは、これ以上付き合うのは時間の無駄のように思えた。
「えっと……伊藤さん、だったよね」
「はい。でも、千春って呼んでくれたほうが嬉しいです」
あ、そ。
「ねえ千春。あなたさっきから、そうです、ばかり言ってる。わたし、そういう噂の域を出ない話って興味ないの。それじゃ」
わたしは身体の向きを変え、門扉をくぐると、背中を向けたまま軽く手を振り、玄関のほうへ向かう。
「すいません、間違えました。最後の言葉」
「えっ」
歩を止め、わたしは振り返った。千春は唇の端に奇妙な笑いを滲ませている。
「三人めに会うと死ぬんです」
語尾を強めに言うと、千春は結びの言葉「以上」で締めくくった。
そして、踵を返し、ゆっくりと闇夜に紛れていく。その後ろ姿を、わたしは呆然として見ていた。だが――。
「ちょ、ちょっと!」
気になるあまり、慌てて門扉を開け、追いかけていく。と、前から一陣の風が吹いてきた。長い髪が跳ね上がり、一瞬、顔を覆われる。視界が開けると、森閑とした住宅街に溶け込むように、千春は跡形もなく消えていた。