人間は要介護になっても何時も何か(お金に換算できる即物的な物)を求めて生きています。どうすれば得するか、損するかだけが関心の的です。しかし、ナイスデイでライフストーリーを書くと、視野が広まります。そしてそこから離れることがやっとできるようになります。

このライフストーリーをスタッフと共に作りあげることで初めて実存的存在である自分に気が付くのです。新たに自分の生まれてからここまでの歩みが見通されて、人との出会いや、失敗や成功などを、全体としてとらえることができるようになるのです。

自分ではどうしようもない容赦ない運命にほんろうされ、それなりに頑張ってきた姿が見通されます。ナイスデイで出会う利用者さまと共に、ライフストーリーを語り合うことによって、過去とつながっている現在、未来が新たな姿になって見えてきます。

そして未来が見えるということにより死への存在に気が付き、過去を超越して、今を生きる新たな気持ちが湧いてきます。同じ立場の仲間と語り合うことによって、自分一人ではできない、救いの共同体へと変貌を遂げることができる可能性が生まれるのではないでしょうか。

死に近い存在になると、過去に持っていたこだわりを捨て、自己に忠実な実存に変貌し、共に生きる喜びを感じることができるようになる可能性が生じます。

こうしてライフストーリーを書くことが実存変貌へ向かう準備となり、こだわりのない自分を取り戻し、実存変貌への前段階へともたらしてくれるのです。視野が広くなり、他者の存在がとても大切だとわかるようになります。自分の人生が他人に理解されて、初めて自分自身に納得できるようになるようです。

他者も同じように戦いに敗れ、悩んでおられることが理解できます。そしてさらに家族もこの利用者さまの歴史を知り、改めてこれまで頑張ってくれた父親、および母親の存在に気が付き敬意が生まれ、新たに大切にしようという気持ちが生まれるようになります。

最後にこの方が亡くなった時には、このライフストーリーをお通夜やその後の法事の時に関係者に見せて、故人をしのび関係者一同が語り合うことができているようです。こういう報告を何人もの方から受けています。一般的に、キリスト教の牧師は、お別れの会の時に簡単に個人の経歴に触れることがありますが、仏教では理解できないお経ばかりで、誰のためのお葬式か、まったくわかりません。

ライフストーリーがこのような使われ方をしているのを聞いて、驚きましたが、日本人にとって個人を大事にする習慣があまりないので、このストーリーがすごく大切な働きをしていることを知ってとても感動しました。こうしたライフストーリーの力は自画自賛だけではないと思っています。本当の文化の新しい在り方を示しているのではないでしょうか。

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