どうにか玄関に降り立ち、革靴に無理やり足を押し込んだ時のことだった。背後から飛んできた何かが、春彦の頭に弾かれて床に転がった。それはかつて郁子と二人で訪れたゲームセンターで、春彦が取って見せたあの白い縫いぐるみだった。その縫いぐるみが十年経っても真っ白いままなのは、少しでも汚れると郁子が例のポンポンで手入れをするからだった。それが無惨にも玄関に転がっている。
背後には、目を真っ赤に泣きはらした郁子が立っていた。その手に抱き枕を振りかざし、今にも襲い掛かってこようとしている郁子の目は虚ろだった。
よく熱を出すようになった郁子を案じて春彦が買ったその抱き枕は、郁子の身長ほどもあった。厚手のしっかりとした生地で作られており、中には低反発のクッションがずっしりと詰め込まれていた。
春彦の驚愕の表情に全く動じない郁子は、尚もその枕を振りかざしていた。発熱続きで痩せてしまった身体にそれが可能とも思えず、そのことからも郁子の尋常でない様子が窺えた。これは冗談ではないのだ。鬼の形相とはこのことだろうか。そんな表情の郁子を、春彦は見たことがなかった。
振り降ろしたその一打目が春彦にかわされると、郁子は普段からは信じられないほどの大声で絶叫し、また春彦に襲い掛かろうとした。
郁子の身長は一五四㎝ほどだ。
もともとかなり小柄で華奢な体格だったが、この新居に越してきた当時と比べるとだいぶ痩せてしまっていた。先日、医師に往診してもらった時にも、少しは体重を増やすようにと言われたばかりだった。
だというのにこの三日間、郁子は飲み物しか口にしてくれなかった。医師に勧められた高栄養のゼリーには、チョコレート味もあった。チョコに目のない郁子のことだ。春彦も少しは期待していたが、それでさえも喉を通りはしなかった。
抱き枕を掴んだ郁子の細い腕が、その枕ごと大きく振るえていた。
「郁ちゃん、寝てないとダメだ!」
咄嗟にそう口にしてしまった瞬間、春彦はしまったと思った。けれども、すぐさまその言葉尻を噛みしめた。少しでもきつく言おうものなら、口を尖らせ泣きながら抗議してくる郁子の泣き笑いが、春彦には切ないほどに懐かしかった。