第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観
第2節 女性たちの厭離穢土(おんりえど)と欣求(ごんぐ)浄土浄土
信仰が大多数の民衆の心をつかんだ最大の要因は、念仏称名で我々のような凡夫も救われるという、「易行(いぎょう)」であったことだろうが、そのほかに、「五障三従の女人」(女性が仏になれない五つの障害と、親・夫・子への従属)という仏教の差別的な女性観に対して、浄土系仏教が「女人をも阿弥陀仏は救う」と説いて女性の信仰を集めたこと(道元も日蓮も「法華経」に基づき女人往生を説いたが)、さらに文盲の多かった庶民に対する信仰醸成の機会が持たれたことである。
すなわち、娯楽のない村々では「念仏講」や「報恩講」などの集会がしばしばあり、江戸時代はもちろん明治・大正期まで、説教師による「節談(ふしだん)説教」が寺院や檀家総代の家などで行われ、講談や落語に通ずる娯楽的要素も持ちながら民衆の心に浄土信仰を浸透させたのである(註:「説教」は「説経」とも書く。教訓を垂れる「説教」とは異なる。関山和夫『説教の歴史仏教と話芸』白水社⑭)。
例えば「しんとく丸」(俊徳丸、謡曲「弱法師」のシテ)を主人公とした節談説教を聴いて「多くの人々は涙をしぼり、極楽浄土への往生を願った」(山折哲雄『日本人の宗教感覚』「NHK人間大学」日本放送出版協会平成八年)し、「一席の説教が終ると鯨波(とき)のような念仏が堂内いっぱいに湧き起こるのであった」(上掲⑭)。
こうした機会は、特に家に束縛されることの多かった女性たちが期待したものらしく、『出家とその弟子』で大正期に親鸞ブームを引き起こした倉田百三の妹・艶子もそうした一人であった。彼女の家は真宗の菩提寺の檀家総代だったから、僧侶の出入りも多く「御文章」の文句はもちろん、説教話もたいてい覚えこんでしまい、「今日はどの話かなと落語家が高座にすわると観客が待つ気持ちで、説教師の僧侶の顔を見たものである」と語っている(『出家とその弟子』角川文庫付録昭和59年)。
さて、江戸時代に庶民にも定着してきた「家」制度(世襲的「家職」の維持と祖霊信仰、「孝」の重視などを内容とする)の維持のためには、子を産む性である女性の場合、「出家」までして信仰に生きることは困難であったが、夫に先立たれた女性や、家の規範から免れた遊女、あるいは病気がちの女性の場合は、「穢土」、つまり穢れたこの世を「厭離」し、死後の極楽浄土への往生を「欣求」する思いがとりわけ強かったようだ。