第一章 二〇〇七年、飛騨支局勤務
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篠原は東京本社から飛騨支局という山奥の小さな支局に転勤が決まった時、週刊誌沙汰にまでなった自分の起こした事件による左遷だとすぐにわかった。クビになっても文句も言えないことをしてしまったのだから、仕方なかった。ところが親しい仲間が開いてくれたささやかな送別会の時、入社以来ずっと目をかけてくれていた水森部長が来て、
「飛騨支局長の緑川さんは、わたしが入社した時の指導先輩記者でね。新聞記事を書くというのはどういうことか、教えてくれた人なんだよ。わたしが、もっとも尊敬する新聞記者だ。飛騨支局長になって、もう十五年になるかな。新聞記者として、大事なことを教えてもらいなさい。君は、これからだ」
思いがけないことを言ったのだった。
田舎の山奥に左遷とばかり思っていたのに、部長はもっとも尊敬する先輩記者に篠原を託して、篠原にまだ「これから」があるように言ってくれたのだった。それにしても、部長が尊敬するほどの記者がどうして山奥の支局に十五年間もいるのかは不思議だったが、ともかく自分はまだ完全に見捨てられたわけではなさそうなのでホッとしてもいた。だから、かなり緊張しての初対面であったのだが、この標高による分担でふっと肩の力が抜けた気がした。
「篠原君は、三千メートル未満のことは、何でも好きに書けばいいからね。飛騨支局は日本一広いエリアを持つ支局なんだよ。南は下呂温泉、富山との県境は世界遺産白川郷、長野との県境は北アルプスの入口の奥飛騨。そして高山市は飛騨国の都だ。高山祭が有名だが、古代史に興味があれば今までの日本史なんかぶっ飛ぶほど面白い発見があるよ。
古事記の稗田阿礼の生誕の地なんていうのもある。稗田阿礼って、ヒエダではなく、ヒダって読むそうだ、ここでは。つまり、古事記に書かれているのは、この飛騨国のことで、飛騨こそ日本の始まりの国なのだと言っている。そしてもちろん、現代のことはなんでも書きなさい。特に、市町村の行政ネタや警察モノや地方経済は、篠原君の得意の分野だと聞いてるから、全部、任せるよ」
ということだった。そしてちょっと厳しい顔になって、「この支局はね」そう言って篠原の顔をじっと見つめた。
何を言われるのかと思い、篠原も緑川の目を真剣に見つめ返した。
「お茶くみなんて人はいないよ。お茶を飲みたかったら自分でいれて飲むし、自分の客が支局に来た時は、自分で客のお茶をいれる。総員三人のこの支局で、一番えらいのは小池さんだから、小池さんを怒らせないように」
何を言われるのかと身構えていた篠原は気が抜けたが、
「はい、了解です」
マジメに答えた。すると小池さんは、
「あれー、こわいさー(恥ずかしい)。いつもの、緑川さんの、どえらい冗談やさ」
笑いながら言った。