【前回の記事を読む】コロッケ1つが4日分のおかず…小学生時代の壮絶な食事事情

第二章 夕日と……。夢人と……。

女として生きる日々。

彼女に本当に好きな男性ができた。

今度は二人の愛の巣の為にまたもや引っ越し、私は小学5年生。一緒に居てほしくないのだろう、夏休み、父の所に預けられる。さすがに継母、信子の暴力はなかったが無視すると云う別の暴力が待っていた。父は何故か段ボール板を箱に加工する仕事を人も雇わず、土間いっぱいに置かれた機械で一日黙々と、音の中で働いていた。

或る日、オートバイで事故を起こし入院、途端に収入も途絶えた様で、その時、この世の不思議を見た。私のことにはこれっぽっちも関心の無い彼女が、父を愛していたのか、自身に起きた異変の心痛ゆえか、確か未だ30代の髪が時を得ずに真っ白になった。中国の白毛女の古事は真かも。

無事父が退院し仕事が再開、日を待たずして元の黒髪に(この時は染めたのかも)。私にはほとんど話しかけることは無かったので、ただ黙って二人の人生のひとこまを見ていた。父の心の傷みと男としての踏ん張りが見ていて切なかった。私にできること、静かに邪魔にならない様に、が精一杯だった。

小学5年の頃、その夏は全ての空気が沈んで、食べるもの見えるものがセピアよりも色褪せた影ばかりの日々だった。

夏休みが終わる、養母の元に。住居は又変わっていた。彼女は水を得た魚の様にピチピチとはぜていた。私の居場所が無い、でも行く先もない、又、静かにここに居ない如く過ごすしかない。その頃流行った間借り生活、そこは母と娘二人住む2階建て、その家の2階、床の間付きの広々とした部屋が養母にとって女として煌きらめく場になった。

何故かその母娘は私の脳裏にポッカリと焼き付いている。二人のつましく小鳥の様に寄り添う日々は、今思えば私に訪れなかった永遠に望んだ羨ましい程の母と娘の絵空だったのだ。

5年生も終わりの頃、養母の帰りは遅かった。彼が来ていた。離して敷いた2つの布団、ウトウトしていると養母の愛する人が私の布団に潜り込んできた。何が起きた、その手は執拗だった。胸から下へと動きだしたとき、彼女の勢いのある”ただいま”の声、まさかそんなことが起こっているなどとはツユ程も思わぬ彼女は前触れなく来た男に満面の笑みで喜びをあらわにしていた。

男はアッと云う間に私の布団から抜け出ていた。それからは、男が来ると私は養母が帰って来るまでなにかとグズグズしていた。そんなことが幾度か繰り返されたが、顔まで優しくなり幸せそうな”お母ちゃん”を見て「彼女の幸せの代償」と思う、可笑しな子供だった。