この街に
その時、
「どうした?」
と、言いながら美子の顔をのぞきこむように顔を近づけてきた彼に美子は、
「いえ、なんでも……」
というのが精一杯であった。
「そんならいいけど。何か心配事でもあるのかと思ったよ」
と、言いながら再び、顔をのぞきこむようにする彼に、
「やはり、この人はわたしの思いも心の動きも全て知っている」
と確信した。その後、
「こんなにも物言いが優しくて、細やかな心遣いをする男性が、ほかにいるだろうか。知り合った、あの時から彼は少しも変わっていないでしょう。そんな意地悪な目で彼を見てはいけないよと、優しく諭すようなメッセージが何処からか、わたしの胸の奧処まで送り届けられている……」
と美子の神経のどこかの部分が感じ取っていた。その直後、彼の橫に並んで歩きながら、美子は、
「結婚すると決めた頃は、彼の人間性も性格も、わたしは勿論、父や母もあまり知っていなかったのではないか。知り合ってから一年ほどでは、それは無理ではなかったか……。でも、わたしは、こんなに優しい人に巡り合ったから、こんなにも穏やかで幸せな日々を送っている。こんなに充実した生活を与えてくれている彼に本当は感謝しなければいけないのではないか」
という思いに辿た どり着いた。
マンションに着くと博は、何時ものようにすぐに自室に籠もった。予定より早く帰宅しようと定時に帰ろうと、家で過ごす日の博は自室に籠もって、キャンバスに向かうことが習慣であり、最も大切な時間であった。
特に今日のように早く帰宅出来た日の彼は、嬉しさを満面に浮かべる、その表情を美子は、結婚後すぐに読み取っていたから、夕食の支度が整うまでの時間は少しも気にすることはなかった。それも美子には心にゆとりを持って日常生活を送ることの出来る原因のひとつになっているのは確かであった。