宝暦十三年(1763年)、二月十三日、市村座の正月狂言、津打治兵衛が書いた「封文栄曽我」(ふうじぶみさかえそが)で、菊之丞が所作事で用いた髪の形から、路考髷、路考櫛が流行った。そして更に、舞台で解けそうになった帯を、とっさに結び直した結び方から、路考結びが流行った。路考のやることなすこと、全て流行した。
「俺はナ、あん時の、あの着物の色が気に入ってたンだ。良い色目だろ?」
鶯色に近い、渋い緑みの茶色だった。
「それが違う物が流行った。髷とか櫛とか、帯の結び方とか、お前何故だと思う?」
菊之丞は聞いた。
「ええ? 何故?」
松七郎は首を捻った。
「せっかく、お杉の役で、あの色の衣装を着たンだぞ!」
菊之丞はむきになった。
「兄さん。櫛、髷、帯が流行ったンでしょう。いくら天下の菊之丞でもそうそう全て、うまくいきませんよ。色までは」
菊之丞も首を捻った。
「そうかナ? 色までは無理か?」
菊之丞は珍しく悲しそうな顔をした。それを見た松七郎は上目遣いで、
「だけど、兄さん。初めから、流行らせようと思って、やったンですか?」
と聞いた。
「当たりめエだ! 役者だからナ。何だって、おめえ、菊之丞が身に付けた物は、全て流行らなければ!」
満々たる自信の菊之丞がいた。
「そういうもンですか?」
松七郎は笑いながら聞いた。
「そうだ。菊之丞だぞ、瀬川菊之丞!」
松七郎は頷いた。
「それなら、兄さん。流行らせるに前以ての、それなりの思案があるンじゃ御座いませんか?」
「前以ての思案か?」
菊之丞は椀を持ったまま、聞いた。
「だって櫛とか、髷とか、帯は誰でも、持ってますからね。簡単に真似ができます。でも色は誰でもがという訳にはいかないじゃねーですか」
松七郎は菊之丞の目を見て言った。
「それに、どこで買うんです?」
「どこ?」
菊之丞は首を少し前に出した、何ともいえない美しさだった。
「そうですよ。路考茶の反物はどこで売ってるんです?」
松七郎は聞いた。
「うん、そうか、なるほどナ。お前は良く気が付くな。なるほど、そうだナ。じゃどうする?」
菊之丞は腕を組んだ。男のように腕を組んでも、また美しかった。松七郎は見惚れた。
「だから誰もが持てるようにすれば!」
「だからサ、どうすんだ!」
菊之丞は息せき切って尋ねた。
「兄さん、今、暇なンだから。そいじゃ、流行るようやってみますか?」
松七郎は悪戯っぽい目で菊之丞を見た。
「やってみるか、暇だからな!」
菊之丞も松七郎を見てニヤッと笑った。またも何ともいえない美しい笑顔だった。